サーカス――その日常から隔絶された天幕の中で人は煌びやかな夢を見る。高らかなファンファーレに合わせて駆ける馬、目にも留まらぬ速さで跳ね回る曲芸師たち、幕間にはおどけたピエロが笑い声をさらっていく。怪力の大男が炎を噴けばその火が燃える輪の中を金の目をした獅子が飛びくぐり、四方を照らす篝火の揺らめきに合わせて翻るは踊り手たちの色鮮やかな長い裾だ。子供たちのみならず大人までをも魅了する魔法の時間、それが今宵もとある街の外れで賑やかに繰り広げられていた。

「さあさあ、ご来場の皆さま方! この街の公演もこちらの演目で締めくくりましょう。我が一座の誇る花形スター、メロディ・スターリングの空中ブランコです!」

 そう告げられるや否や大歓声に包まれる舞台、その中央に現れた娘が可愛らしい笑顔で客席に手を振る。するすると降りてきた小さなブランコに片手を伸ばせばあっという間に華奢な彼女の身体は宙へと浮き上がり、反動をつけてくるりと1回転したメロディはいとも容易くその上に腰かけた。その身を包む衣装に違わず本物の妖精のように軽々とブランコを飛び渡り、彼女は難度の高い技をいくつも披露し続けていく。シナモン色の髪がふわりとなびいて宙を舞う度、天幕中に鳴り響く拍手は間違いなくこの日1番だ。

「皆さまお楽しみいただけましたでしょうか? これで今回の公演はお開きとさせていただきますが、また皆さまにお会いできる日をエフェメール一座の団員一同心よりお待ちしております。では最後にもう1度、出演者たちへ盛大な拍手を!」

 一段低い場所では楽団員たちが軽快な音楽を奏で、惜しみない拍手の合間にあちこちから響く賞賛の口笛がそれに彩りを加えている。舞台の上に集まって歓声に応える演者たちの中でも可憐な空中ブランコ乗りは一際輝いて人目を引き、チャーミングなラベンダーブルーの眸に魅了された者もきっと多くいたことだろう。そしてここにもまた1人……。

「――メロディ!」

 満員だった客もはけ、すっかり静かになった天幕の裏。打ち上げの杯を交わしに街へと向かった者たちがそろそろ何杯目かを空にしようとしているだろうそんな時刻、もうすぐ春も終わりとは言え夜の風はまだ涼しい。薄手の上着をしっかりと羽織ったメロディが彼女宛てのメモに記された通りその場に現れると、今日で3ヶ月の契約期間が終わる臨時雇いの若い軽業師が物陰から姿を見せて手を振った。

「来てくれてありがとう。こんな遅くに悪いな」
「いいえ……それで、お話って?」

 見事な演技を見せた猛獣たちの低い寝息を遠くに聞きながら、潜めた声で交わされる2人の会話。こんな状況で為されるべき会話の類は多くはなく、もちろんこの場合もまた然りだ。ほのかな月明かりの下でも十分わかるほど顔を紅くした男は1度深く息を吸い込むと意を決してその口を開く。

「メロディ、君が好きなんだ。俺は今日でこの一座を離れるけど、もしよかったら……」

 その先に言おうとしていたのは“それでも付き合ってくれないか?”あるいは“一緒についてきてほしい”だっただろうか。緊張のあまり続く言葉も終えられず、早鐘を打つ心臓の音が聞こえてきそうなその様子に嘘をついていると思う者はさすがにいないだろう。だが、相手が真剣であればあるほどメロディの答えはいつも1つだ。

「……ごめんなさい」
「メロディ!」

 今まで彼女の首を縦に振らせた者など誰もいない、それはこのエフェメール一座で1度でも仕事をしたことがある者なら誰もが知っている。それでもメロディの清楚な麗しさに恋い焦がれ、こうして想いの丈を打ち明ける男たちは後を絶たない。

「どうしてもか? なあ、俺は本当に君のことを――」
「そこで何をしているのかな」

 その瞬間聞こえた声にびくりと軽業師が振り向けば、すぐ近くの暗がりには暗い金髪の壮年の男が、小さな火を灯したランプを片手に持って2人を見ていた。濃紺のコートの襟を立たせ訝しげな顔をした彼こそはこのサーカス団を率いるダリウス・エフェメール、こんな場面を目撃されるに最も遠慮したい相手だ。

「だ、団長。いやその、これは」
「もう消灯時刻を過ぎる。君も今日いっぱいはまだ団員扱いだ、外出許可を申請していないなら早く部屋に戻るべきでは?」
「……っ、わかりました」

 がっくりと肩を落とし、恋破れる瞬間を見られてしまった男は項垂れて宿舎棟の方へと戻っていく。自分ならばきっと彼女の心を動かすことができる、燃えるような情熱を胸にメロディの前に立つ者は皆そう信じて疑わないのだろう。しかしそうやって熱く恋心を訴える男たちが想い人から断りの返事以外を聞くことは叶わない。彼女が自ら愛の言葉を囁き、あまつさえその唇に触れることを許すとすれば、それは――。

「メロディ、君もだ」
「はい、団長」

 そう言い残すと団長と呼ばれたグレーの目の男は見回りを続けるためにメロディとすれ違うとその場を立ち去った。美しいブランコ乗りは遠ざかるその背をしばし見つめていたが、上着のポケットに差し入れた細い指に触れるは確かに今しがたまではなかったはずの小さな鍵。相変わらず全く衰えない腕の持ち主だと苦笑しながら、観客の人気を一身に集める一座の星は辺りを伺いつつとある建物へと足を向ける。だがそれは彼女のような一握りの演者に与えられた個別の部屋ではなく、さりとて軽業師が帰ったような大部屋の宿舎でもない。静けさを保って寛げる程度に点々と離されて設けられた簡易な小屋、そのうちの1つには自身の荷物が置かれたままでも、メロディの目的地はその先にある。大きな樹の陰に見える最も小さな建物、彼女が手にしている鍵はその扉を開くためにこそあるのだから。
 周りに人影がないことを確かめると慣れた手つきで錠を外し、メロディは日頃と変わらずあまり物のない部屋の中に足を踏み入れる。目につくものと言えばかろうじて解かれている衣服の包みに運び込んだ時から開けた形跡のないトランク、後は簡易机の上に積まれた数冊の本くらいのもので、生活感の希薄な様は残念ながら主がほとんどこの場に長居しないことを象徴していた。それを感じる度に相手の忙しさを思い心を痛めずにはいられないのだが、いつかそう遠くない日に彼女もその助けとなれる時が来るはずだ。
 そして所有者の丈を思えば少し小さいような気もする寝台の上に腰かけてしばらく待った頃、閂をかけずにおいた扉が軋む。その音を聞くや否や跳ねるように立ち上がったメロディは戸口に駆け寄ると、抑えた声で愛しい恋人の名を口にした。

「ダリウス!」

 そのまま胸に飛び込んでくる彼女を戸を閉めた相手もまたしっかりと抱き寄せ、見つめ合う時間も惜しいとばかりにすぐさま重なる唇は何よりも雄弁に2人の関係を示している。名残を惜しむかのように幾度も繰り返される口づけ、離れる気配のない身体。メロディは幸せそうに目を閉じると、その胸に抱かれたままダリウスに囁く。

「逢いたかった……」
「今そこで会ったばかりでも?」
「もう、違います!」

 からかわれ、ふいと横を向く素振りを見せたところでずっと年長の相手が動じることはない。なぜなら彼はもう十分に知っているのだ……。

「ははは……すまないメロディ、機嫌を直してくれ。君と2人きりでなければ意味がないのは私も同じだよ」

 その言葉にぱっと頬を染めるメロディ、彼女の想い人が昔から自分1人だということを。