そんな2人の出逢いは15年前に遡る。当時5歳のメロディは両親に連れられて初めてのサーカスを見に来た帰り、人混みの中で独りはぐれてしまったことがあった。周りが次々に天幕を後にする一方、このまま両親が見つからなければ自分はどうなってしまうのだろうと考えるにつけ湧き上がる不安は止め処ない。あんなに賑わっていた舞台の上も、人がはけて暗闇に閉ざされればきっと恐ろしい場所へと変わってしまう。そんな中で逃げ出した虎と鉢合わせてしまったら? あるいはそのままサーカスに連れ去られ、もう両親にも会えなくなってしまったら……?
 しかし恐怖と孤独に俯いて泣き始めた少女を優しい影が包み、それに気づいたメロディは涙に濡れた顔を上げた。薄い青紫色の眸に映ったのは黒く艶めくシルクハットを被いた背の高い大人の男――舞台で目にしたばかりのマジシャンの姿だ。

「迷子になってしまったのかな?」

 跪き長く引かれた燕尾服の裾を何の躊躇もなく地面につけると、淡い灰色の眸を持つ手品師は片手を差し出しながらそう尋ねる。その掌におずおずと自身の小さな手を重ね、涙を拭きつつ頷いた彼女の頭をもう片方の大きな手が撫でた時、メロディは安心するような、それでいて胸が騒ぐような不思議な感覚を自身の中に覚えた。

「お父さんとお母さんはすぐに来てくれるよ。それまで私と待っていよう……さあ、見てごらん」

 その時小脇に抱え直されたシルクハットの中から魔法の如く取り出された兎の縫いぐるみ、後に贈り主と同じダリウスの名をつけられたそれは今も彼女の大切な宝物だ。どうして何も入っていなかった帽子にハンカチを被せただけでそんなものが現れるのか、尋ねたくとも驚きのあまりに声も出ない。ぽろぽろと零れていたはずの涙はいつの間にか止まっていて、メロディは自分が迷子だったことも忘れて目の前のマジシャンに魅入っていた。今よりもまだ少しだけ若く、青年の面影を残した在りし日のダリウスに。

“……ダリウス・エフェメール……”

 いつか彼のようになりたい、その時そう強く願ったことをメロディはまだ覚えている。人の心を慰め、励まし、夢を与えてくれるような存在。ただの子供でしかない自分にも真摯に向き合ってくれた優しい手品師の思い出は少女の心に深く刻まれ、彼女はダリウスへの憧れを胸に大人になった。それはいつしか切ない恋心へと変わり、やがて長い片想いの末にめでたく実ることになるのだが、幼い日に抱いた思いはずっと変わらない。誰よりも尊敬できる団長であり、誰よりも愛しい恋人。そんな彼が自らの夢として興したこのサーカスを支えること、それが今のメロディの目標だ。

「メロディ!」
「よかった、ここにいたのね!」

 その後すぐはぐれた娘の元に駆けつけてきた両親は彼に何度も礼を言ったが、正装の奇術師は2人が見つかってよかったと微笑み、気をつけて帰るよう親子に告げると帰路につく疎らな人々の間を縫って天幕の方へと戻っていった。メロディが両親としばし歩いたところで振り向いた時にはもう彼の姿は見えなくなっていたが、両腕にしっかりと抱きしめた縫いぐるみは2人のめぐり逢いがこれで最後ではないことを物語っていたのかもしれない。
 思い返せばその夜の演目で彼女の心を最も惹きつけたのは球乗りをする熊でも、茶目っ気たっぷりに振る舞う道化師でも、現在自身が担当している空中ブランコでもなく、色とりどりの服を着たサーカス団員の中では控えめにさえ見えるダリウスの奇術の時間だった。自らの一座を率いる今では裏方を務める方に専念しているが、時折開かれる団員同士の懇親会でかつて団長が披露していた余興は抜群の人気を誇り、新しく入った手品師が皆1年と保たずに辞めていくのはそのせいだという実しやかな噂さえあったほどだ。
 恋人の贔屓目を差し引いてもダリウスが1流のマジシャンであることは疑いようがなく、現役を退いてなお衰えることのない技術は観ている側に時間を忘れさせてしまう。欲を言えば彼と同じ舞台に立ってみたいというのが正直なところなのだが、訓練生として入団してから早10年の時が経ってもメロディの密かな夢が叶う気配はなかった。
 どんなに優秀な奇術師がやって来たとしても、ダリウスの演出する魅惑の時間を経験してしまった後では誰もが多かれ少なかれ見劣りしてしまうのは避けられない。この一座は自由闊達な気風で長く所属する団員も多いが、唯一マジックをその受け持ちとする者に限ってはきっと居心地の悪い場所だろう。だからこそ団長は自らの腕を封じ、数年前からは内輪であっても人前でその技を見せることを止めた。今では団員たちにせがまれたとしても首を横に振るばかりで、彼の魔法の片鱗を味わえるのは恋人たるメロディだけの特権だ。
 それが嬉しくないわけではないし、2人でいる時に頼めば快く見せてくれるというだけでも他への対応とはまるで違うことはわかっている。それでもまた舞台の上で多くの観客を魅了してほしい、瞬き1つできないほど夢中になれるあのひと時をたくさんの人と共有したい、そう願わずにはいられない――本物の魔術師と謳われたほどの人物を独り占めしてしまうのはきっとあまりにも惜しいことなのだから。

「メロディ、寒くないか?」
「いいえ。あなたは?」
「君がいてくれればそれだけで温かいよ。さあ、もっとこっちにおいで」

 愛と歓びを心ゆくまで分かち合った寝台の上、一糸纏わぬ姿のまま暖かい毛布に包まった2人はもうすぐ訪れるしばしの別れを前に仲睦まじく身を寄せ合う。夜の涼しさは部屋の中にもどこからともなく忍び寄ってくるが、服を着るよりこうしていた方がなぜか不思議と温かい。
 このまま夜が明けるまでこうしていられたらどんなにいいだろう。お互いの温もりに癒されながら穏やかな眠りに落ち、目覚めてなお愛しい人を腕に抱いていられたら。存在を隠していると言えば聞こえが悪いが、人目を忍ぶように関係を結んでいるのは事実であり、良くも悪くも一般的とは言えない付き合いをしていることは2人それぞれ自覚がある。それでももはや離れることなど考えられない。愛という言葉の本当の意味を教えてくれた相手と一緒にいられるのなら、この程度の寂しさなど数のうちにも入らないはずだ。

「ダリウス……」
「うん?」

 あと少しだけ離れ離れになる時間を先延ばしにしたくなり、冷えた服に袖を通したメロディは静かな声で語りかける。

「次の公演からまた新しい人が入るというのは本当ですか?」
「ああ、耳が早いな。久々にマジシャンが来てくれることになったよ。歳の割には破格の腕だし、長くいてくれるといいんだが」
「……あなたは、もう舞台で演じる気はない……?」

 メロディが呟くようにそう尋ねると、ダリウスは少し驚いた様子で彼女を見つめた。だがすぐに優しく目を細めた彼は引き寄せた恋人の頬に軽く音を立てて口づけ、その耳に返事を囁く。愛しさの込められた、それでいてどこか宥めるような声で。

「今度来るアレッサンドロ・ジラルディーノ、彼は本格派だ。きっと君も楽しめる」

 その言葉にちくりとメロディの胸が痛んだが、無理を言ってダリウスを困らせたいわけではない。振り向いてもらえることなどないと諦めていた相手に愛されているというだけでも信じられないほど幸せなのに、これ以上を望むのは過ぎたことだ。メロディは自分を納得させるように小さく頷くとそっと目を閉じ、この晩最後のキスをダリウスと交わした。