その後もエフェメール一座の公演は順調に続き、1ヶ月の興行は早くも折り返しを迎えていた。数日毎に休演日を設けているとは言え、ここまでの長丁場ともなると演者たちへの負担は大きく、特に動物曲芸の主役である虎や熊、馬や猿たちにはそろそろ十分な休養を与えてやらねばならない。そこでダリウスは中日の後の3日間を完全な休演期間とし、また無事にその日の公演を終えた団員たちのためにささやかなねぎらいの場を用意していた。

「まずは今夜もご苦労だった。公演は君たち全員のおかげで毎日満員御礼だ、団長としてはこれより誇らしいこともない。明日から3日の間はそれぞれ好きに過ごしてくれ。これまでの感謝を込めて一通り飲み食いするものを揃えたつもりだが、あまり羽目を外し過ぎないように頼むよ」

 団長がそう挨拶をすれば食堂には朗らかな笑いと温かい拍手が満ち、それを合図に小気味良い音を立てて打ち鳴らされる麦酒のジョッキは楽しい宴の始まりを告げる。ダリウス自身を始め細々とした作業を担う裏方までもが仕事を休めるわけではないにせよ、一座が成功を積み重ねている時期とあらば表舞台を支える側にも力が入ろうというものだ。
 公演初日の大成功は翌日の新聞にも取り上げられ、中でも看板曲芸師のメロディに割かれた紙面は多かった。自らの一座が好意的な話題に挙がることはただでさえ気分のいいものだが、その中心が前代未聞の大技を成し遂げた恋人ともなれば喜びは何倍にも大きくなる。念のため出番を終える毎に医務室で様子を見させてはいたものの、上がってくるのは何の問題もないという報告だけとなれば、もはや演技に支障はないと判断しても差し支えないだろう。メロディが手を痛めていることを知る者はほとんどいないが、例え知っていたところでそれを信じるのは難しいかもしれない。それさえも忘れさせてしまうほどの演技を披露できる花形スターの精神力と安定性は、多少の不利があったところで他の追随を許しはしないのだから。
 彼女が怪我をしたとわかった後、ダリウスはすぐに衣装係を呼び出し裁縫道具を検めさせた。だが彼らの裁縫箱に欠けた針は1本もなく、また控え室から回収した針にも見覚えはないという回答しか得られなかったことから考えても、何者かが意図してメロディを傷つけようとしたのではないかという疑いは一層強まっている。出演者の枠に限りがある以上水面下の諍いはどんなサーカスにも起こり得ることだが、ダリウスはそういった事実に対して常に厳しい処分を下してきた。しかし彼女の実力が確かなことはもはや誰の目にも明らかだとしても、団長と想い想われる間柄であると知れれば嫉妬の矛先をそちらへ向ける者はいる。大きな舞台が人の心を迷わせる誘惑に満ちていることを思えば、いくら妨害を警戒したところで過ぎるということはないだろう。
 何よりダリウスが2人の関係を周囲に明かさない理由も、こうした悪意の可能性から彼女を護りたいがためであり、だからこそ今回の件は決して看過できるものではない。未然に防げているとは言え、メロディを標的としていたのではないかと思うような不審な出来事は、この2週間あまりの間にもまだ何件か起こっていたのだから。

“この中の誰かが彼女に敵意を抱いているとは思いたくないが、後になってから悔やむようなことだけは絶対に御免だ”

 団員たちとの談笑に相槌を打ちながらも、グレーの眸は注意深くメロディの姿を見護っている。しかしその隣には今夜も亜麻色の髪をした美男子が寄り添っており、それがダリウスを憂鬱な気分にさせていた。この若き奇術師に初日の公演での振る舞いを問い質した時のことを思い出せば、それはますます酷くなるばかりでため息をつかずにはいられない。

「……なぜ呼ばれたのかはわかっていると思う」
「昨夜のことですか?」
「理由があるなら聞かせてもらいたい」

 団長室の机の前に佇むアレックスは微笑みの仮面を被ったまま、さも取るに足らないことだと言わんばかりに肩を竦めて答えたものだ。

「その方が映えると思ったからですよ。彼女が降りてきた時の足元を団長もご覧になったでしょう? 少しばかり量が多すぎたのは反省していますが、お気に召さないようでしたら今夜からは取り止めます」

 虚偽か本気かわからない物言いにダリウスは思わず言葉を失い、その時は厳正な彼をしてなおそうしてくれと告げることしかできなかった。しかし感情的に詰め寄ったところで、この若者は顔色1つ変えはしなかっただろう。

“こうも扱いの難しい相手だとは思わなかったが、見た目だけではわからないものだな”

 評判が評判を呼ぶこの公演には既に何度も足を運んでくれている観客も多く、それを考慮した演者個人の判断によって披露される技は日毎に少しずつ組み替えられることが多い。だが唯一アレックスだけは初日と変わらぬプログラムを連日演じ続けていて、その技の水準が非常に高いことは疑いようがないにしても、繰り返し同じものを見る一部の客に多少の飽きがきてしまうのは無理からぬことだ。それでも彼ほど才能のあるマジシャンであれば僅かな工夫で観客の興味を新鮮なままに惹きつけておけるのだが、それを助言しようとしたダリウスに返された返事はと言うと――。

「ご忠告は痛み入りますが、僕はこれが完璧だと思っていますので。現に来客数は右肩上がりですし、それでも何か問題が?」

 良きにつけ悪しきにつけ、彼は当世稀に見るほど高い自尊心の持ち主だ。難度が高いということと観客が楽しめるということは必ずしも意味を同じくするわけではないのだが、若いアレックスにはまだそれがわかっていないのかもしれない。しかし奇術界の新星たらんとする気概がいくら確かなものであっても、その笑顔の下に秘められた高慢な性格と過剰にも思える自信が、彼自身を滅ぼす火種になるのではないかと思うと次第に不安が募っていく。いつの日か挫折を知らない天才がなりふり構わぬ姿を見せた時、それでも身を尽くして支えようと思ってくれる者は果たしているのだろうかと。

“彼を一体どうしたものか……”

 傍目には全てが順調に見えていても、煌びやかな天幕の表も裏も知っている身であれば浮かれてばかりもいられない。だがダリウスが何度目かわからないため息をワイングラスの影に隠そうとした時、そのすぐ近くで優しい声が彼を呼んだ。

「団長」
「……メロディ?」

 振り向けばそこには一座の誇る可憐な空中曲芸師がいて、団長は思わず周囲に手品師の影を探る。しかし視界の隅に映ったアレックスは他の団員に捕まっていて運良く遠くに離れており、賑わう食堂の中で2人に目を向けている者は誰もいない。

「今夜、お部屋へ伺ってもいいですか?」

 宴のざわめきにかき消され他人に聞こえはしないその言葉。だが想い合う相手の耳にだけはなぜか不思議とはっきり届く。
 2人が一緒に過ごせる時間は何も公演の最終日に限らず、こうして翌日に仕事のない日や他の団員たちの気もそぞろな夜は、人目を忍んで恋人らしい逢瀬を果たすのに十分だ。加えて団長と花形スターはどちらも疲労著しい立場だと誰もが知っているとなれば、夜の早い団員たちに紛れいつの間にか姿を消していたところで特段不思議に思われることもない。
 機を見るに敏、その言葉に違わずダリウスは小さく頷くとポケットの中の鍵に手を触れる。同じようにそれを渡した2年前のことを、懐かしくも愛おしくその胸に思い返しながら。