眩しい陽射しの下でもその場所は涼しい風が吹き抜ける。緑の蔓が絡まり合った果実棚の下を歩きながら、トゥーラ・クオーレは手にした籠に熟した実を捥ぎ入れていった。紫色の果実からは濃厚な甘い香りが漂い、舌先でとろけそうな果汁を想像させるには十分だ。
 彼女は手を伸ばせば届く高さの果実棚を仰ぎ見ると、未熟な実にも光が当たるよう茂った葉を適度に落とす。そして一通りの収穫を終えるとトゥーラは小さな家に戻り、果物で満たした籠を開け放した戸口へそっと下ろした。次に彼女が手にしたのは井戸水を汲んで満たしたバケツで、細腕には荷が重いそれで木の根元へと水を撒いていく。果樹園の規模としては最も小さなものに当たるとはいえ、ここで果物の手入れを担っている者はただ独りだけだ。水やりが終わればその後は収穫した果実の選別をし、3日後の朝に市へ売りに行く準備を始めねばならない。毎日新たに数えきれぬほどの果実が熟すこの時期は、時間がいくらあったとしても決して足りることはないだろう。
 淡い緑の目をした娘が足を止め汗を拭った時、彼女の頭の上を数羽の鳥が軽やかに飛んでいった。赤や青、黄色や緑の羽も鮮やかなその鳥たちは、ひとたび翼を広げれば人の背丈と変わらぬ大きさだ。彼らが売り物を手当たり次第嘴で突つかないように、果樹園の主は熟れすぎた実を敷地の外れへと置いている。きっと今の鳥たちはそこへ向かい羽ばたいていたことだろう。トゥーラはこの賢く雄大な鳥を心から慕っていた。
 生まれてすぐに捨てられた彼女の命を救ってくれたのは、この果樹園の創設者でもある義理の父レジス・クオーレと、森林に住まう色とりどりの翼も美しい鳥たちだ。独り者だったレジスが赤ん坊の存在に気づいたのは、いつもは穏やかなこの鳥たちがその日に限って引っ切りなしに鳴いていたからなのだと聞いた。追い払おうと義父が外へ出ると鳥は一斉に舞い上がり、彼らの列に導かれるようにレジスは果樹園の片隅――今は鳥の餌場になった場所で幼いトゥーラを見つけたのだ。彼がその小さな存在を日に焼けた腕で抱き上げた時、周りの木々には数えきれぬほどたくさんの鳥がいたという。
 それ以来厳しくも優しく、本当の父娘おやこのようだった義父を亡くしてもう3年が経つ。レジスが丹精込めて創り上げた果樹園を引き継ぎながら、彼女は自分独りなら食べていける生活を続けていた。トゥーラの果実は大農園のものより一回り小さいが、果肉の詰まり具合や味の濃厚さでは誰も敵わない。週に1、2度町の市に出れば昼には全て売れてしまい、彼女がやって来る日を心待ちにしている者も多くいた。
 だが人付き合いが苦手だったレジスの家は辺鄙な場所にあり、本来ならば町まで出るのも女の足では一苦労だ。それ故に直接果樹園まで買い付けに来る者などいない――とある1人の男を除いては。

「トゥーラ」
「!」

 突然声をかけられたトゥーラは驚いて後ろを振り向く。だが見知った姿を目にするとほっとしてその頬を綻ばせた。

「マノエルさん、あなたでしたか。そんなに驚かせないでください」
「すまない。家に姿が見えなかったからここだと思ったんだ」

 マノエルと呼ばれたその男は赤銅色の肌も凛々しく、精悍な身体つきからは威厳のようなものも感じられる。口元や目元には年月が刻んだのであろう陰があり、褐色の髪はところどころ銀色に輝いているものの、不思議とその年齢自体を推測することはできなかった。
 彼はただ1人果実を買うためここを訪れる人物だ。昔から義父と出ていた市場で売り買いをしてはいたものの、レジスが亡くなってからはこちらの方にも顔を出してくれる。正直なところ町まで出るのは時間がとられることもあり、こうして買いに来てくれるマノエルはありがたい存在だった。

「今日も1箱分ほど売ってもらえるととても助かるんだが……」
「わかりました、ご用意します」

 バケツを足元に置いたトゥーラは家へと続く道を戻り、年長の男はゆっくりと彼女の後ろを追いかけていく。彼は弾けそうなほど熟しているものが好みと知ってから、トゥーラはその条件に合うものを箱に入れるようにしている。そして今日もまた果物を詰めた木箱を渡そうとした時、マノエルは多すぎる代金を彼女の前の机に置いた。

「そんな……こんなにいただけません。こちらはお返しさせてください」
「いや、全部受け取ってほしい。君のように誠実な作り手は今やとても貴重なんだよ。君の労働に対する対価はきちんと支払われるべきだ」
「でも……」
「トゥーラ、そう言わずに頼む」

 乾いた暖かい大きな手がトゥーラのそれを上から包み、彼女の小さな心臓は爆ぜてしまいそうに鼓動を刻む。普段話す相手さえいない孤独な日々を送ってはいても、トゥーラは誰にでもこうした反応が返せる娘ではない。

「なくなった頃にまた来るよ。それまで君も元気で、トゥーラ」

 そう言ったマノエルは軽々と箱を持ち上げ外へ出ていく。トゥーラは門のところまで彼に付き添いその背を見送ったが、淀みない足取りで歩いていく道は町と逆方向だ。
 マノエルは何者なのだろう――初めて逢った時から抱き続けている謎は今も解けない。まだレジスが生きていた頃からよく彼の顔は見かけていた。後にも先にもマノエルほど買っていく客などいないことと、バターのような色の眸は幼い記憶にも残っている。だが彼の姿は昔から何も変わらないように思えるのだ。そんなことはあり得ないと理性ははっきりとそう告げていても、思い出の中のマノエルは今と違うところなど1つもない。
 15年以上にも渡り顔と名前を知っているとはいえ、逆に言えばトゥーラは彼について他の知識を持たなかった。もう少し詳しく尋ねてみたいといつも思っていたのだが、黄金に輝く蜂蜜のような眸で見つめられたなら、言うはずだった言葉など煙の如くどこかへ消えてしまう。子供の頃はそんなマノエルを苦手に思ったこともあれど、包み込むような彼の優しさに気づける歳になった日から、トゥーラはマノエルに逢える時を心待ちにするようになった。例え彼のことを何も知らないに等しい立場だとしても、果樹園の娘はいつしか常連客に恋をしていたのだ。

「……さて」

 一方マノエルはトゥーラの姿が見えなくなる場所に来ると、持っていた果実の箱を地面に下ろして軽く肩を回す。それを合図にするように近くの茂みから鳥の声がした。

『重いお荷物大変お疲れ様でした、マノエル様』

 伸びのある声で鳴きながら大きな黄緑の鳥が現れ、何羽もの鳥たちがそれに続いて木の上に姿を見せる。

「ルカス、そこにいたのか。後はお前に任せて構わないか?」
『勿論です。我らはそのために』
「ではそうさせてもらうとしようか」

 傍目には単なる鳥の囀りにしか聞こえはしないそれに、人の言葉で答えたマノエルは箱の中の果実を取った。両手でそれを2つに割ると途端に滴る果汁を啜り、ゼリー状の甘く爽やかな果肉を余さず味わっていく。その後ろでは鳥たちが果物を持てるだけ足で掴むと、それぞれが順に同じ方向へ舞い上がり飛び去っていった。

『それでは失礼いたします。御身お気をつけてお帰りください』

 鮮やかな色の尾羽をした鳥がそう言ってその場を辞すと、森の中にはマノエル1人だけが空の箱と共に残る。彼はしばしトゥーラの果物の美味の余韻を反芻すると、天に向かい伸びる木々の間に覗く青い空を見上げた。するとマノエルの身体からは不思議な淡く白い光が放たれ――その光が消えると共に、天空へと羽ばたいていったのは真紅の大きな鳥だった。