マノエルはこの地に住まう同種の鳥たちの中の王だった。王の家系に受け継がれている魔法のような力を用い、必要とあらば姿を変えて人里に降りることさえある。だが餌として最も美味なこの果物を多く求めるために、金銭を支払っているのは何も慈善というわけではない。
 かつてレジスが道もない森の中に果樹園を開いた時、鳥たちは彼の手がけた果実の甘さに驚嘆したものだ。しかしその収穫の成果からも、当時の市での売れ行きからも、見返りなどほとんどないことは彼らの目にも明らかだった。このままでは生活できなくなりレジスは去ってしまうのでは――そんな不安を抱いた鳥たちは果物を囓ることを止め、人間と同じ通貨を支払うことで彼を支えていった。森の中で採れるある種の石は簡単に見つけられるため、マノエルは人の姿でそれを売りに行き金銭へと変える。鳥たちの住処にはいくらでも転がっているその手の石が、人間にはとても貴重なものであると彼は知っていたのだ。
 しかしレジスが刻々と老いていくのは新たな不安をかき立てた。望める義理はないとはいえ、できることなら果樹園を託せる誰かが現れないものか……鳥たちがまさにそんなことを思っていたある日のことだった。巣の傍に生まれたばかりの人間の子供が捨てられていて、知らせを受けたマノエルもすぐさまその場に慌てて駆けつけた。逃げるように去って行った男女は親とは思えぬほど若く、1度だけ振り向いた女の頬には涙が光っていたが、男に急かされて前を向くとそのまま町へと消えていった。

「マノエル様、このままでは……」
「ああ、私もわかっている」

 このまま赤ん坊を放置していればいずれ死に至るだろう。金の眸をした紅い鳥は人間へと姿を変えると、恐る恐る赤子を抱き上げて果樹園の方角を目指した。それはもちろん身近な人間がレジスであったこともあるが、後継者として子供を受け入れてほしい願いもあっただろう。マノエルの腕の中でいつしか赤ん坊はすやすやと眠り、小さくも確かな温かさに彼は思わず笑みを零した。果樹園のぬしの献身もあってその子供は元気に育ち、義父から果実の手入れの仕方を教わる姿は微笑ましい。トゥーラと名付けられた子供はレジスと鳥たちの娘であり、長じてからは義父さえ凌ぐ才能で果樹園を継いでいる。
 長年患っていた病でレジスがついに亡くなった時、鳥たちは彼の墓へ口々に銜えてきた花を捧げた。人間と深く関わることを好まなかったレジスにとって、鳥たちは唯一の友人とも呼べる存在であっただろう。それはマノエルたち鳥も全く同じ思いだったからこそ、彼らは今も遺された娘のことを見守り続けている……。

“……トゥーラ……”

 翼をはためかせながら王は彼女の目を思い出していた。いつからかトゥーラを想う度に胸を満たす切ない感情。若葉色の眸に優しく見つめられる毎に息は止まり、どんな雌の囀りよりもなお甘く響く声に聞き惚れる。それがいかなる想いなのか、聡明なマノエルはもうずいぶん前から答えを知っていた。
 だが認めても何も変わらない――トゥーラは人間の女で、彼は雄であっても鳥なのだから。彼女はマノエルが人でないと考えたことなどないだろう。どんなに親しく接してくれても今の関係が限界だ。マノエルは王として群れの中から番いとなる雌を選び、次代の王となる卵を設けるという大事な義務がある。それをトゥーラが務めることなど夢の中でさえも不可能で、そもそも彼女がそうしたいと望むことも決してあり得ない。
 彼女には人として同じ種族と生きていく人生がある。人間の男と愛し合い、新たな命を育む未来。しかしそれを思う度に王は狂おしい嫉妬に己が身を焦がす。あの柔肌にその手を触れ、トゥーラの温もりを得られる者。愛の歓びを分かち合い、甘やかな声で何度もその名前を紡がれる栄誉を持つ者。そんな者は現れなければいい――自分がそうで在れないのなら。

「お帰りなさいませ。マノエル様、どうぞこちらへお越しを」

 心地良く整えられた巣には何羽もの側近が待機し、他の者たちは甘酸っぱい香りの果実を賞味している。だが平素と違ってそわそわしたルカスをマノエルは訝しんだ。

「ルカス、何か問題でも?」

 先ほど別れる前まではそんな素振りなどなかったはずだが、黄色い目を輝かせたルカスは高らかに吉報を告げる。

「いえ、その逆でございます。マノエル様の愛の木が本日ついにその実を結びました」
「!」
「今しがた番をしている担当者から連絡がありまして。つきましては王妃をお選びいただく日取りのご相談をと」

 マノエルは驚きのあまり枝から滑り落ちるところだった。それはあり得ないことだからだ……その秘密を知っているのは仲間の中で彼だけだとしても。

「本当に木に実が生ったと?」
「そのように聞いておりますが……?」

 初代の王がかつて森の奥に植えたと言われる“愛の木”は、その名の通り王妃のために実るという不思議な植物だ。1代の王の統べる間にたった1度しか実を結ばず、代々の王は木に実が生ると1羽の雌を番いに迎え、果実を分け合い交わることで王子となる卵を得てきた。さりとてマノエルは口を噤む――“愛の木が実をつけるのは心に抱く想いが実る時だ”、王のみに口伝えで明かされるその秘密を思い返して。

“心に抱く想い……”

 それを知らない者たちにとっては愛の木が実を結んだところで王の結婚を示すだけだ。あらゆる雌が呼ばれ集い、王の前でその美を競おうともそれはただの儀式に過ぎない。王たる者はその場で想う相手の名を皆に明かせばいい……祝福を受けて絆を築くことのできるただ1羽の名を。
 なぜ今この時マノエルの治世に愛の木は実ったのだろう? 彼が愛しさを覚える者は違う世界を生きているのに。

“……トゥーラ……”

 彼女に惹かれている事実から目を背けることはもうできない。しかし愛の実でさえもこの隔たりを埋めることなどできないだろう。王妃を夢見て集まる雌の中から誰か1羽を選び、王家の血を継ぐ卵を設ける努力をするより他にはない。呼び寄せられた候補たちの中にトゥーラがいないからといって、自らに課せられた義務を放棄することも許されないのだ。マノエルは1羽の雄である前に同じ種族の王であり、陸に生きる者たちとは相容れぬ天空の住人だった。

「3日もあれば遠出している群れにも十分間に合うだろう。太陽が真上に来る時、私の番いになりたい者はここに集うよう伝えてくれ」
「御意。では3日後に愛の実を運ぶ手筈を整えます」

 長らく実をつけることのなかった木に生った待望の果実。次代の王の誕生も近いと側近たちは浮き足立つ。マノエルはそんな様子をどこか他人事めいて眺めながら、誰にも気づかれないよう注意して静かにため息をついた。
 王妃となった雌と仔を成し、その大義に敬意を表しながら生きていくことはできるだろう。だが愛することはきっとできない……自分がトゥーラに抱いているこの想いこそが愛だとすれば、もう他の誰にも同じ想いを感じられぬことはわかっている。それは妻となる相手にとっても同じく不幸なこととなるだろう。
 マノエルの種族は生涯1羽の番いしか持ちはしないが、王の伴侶に選ばれれば相手の運命は大きく変わる。トゥーラの身代わりとして誰かを縛り付けることも気が重く、恋しい相手を思い出させる果実の香りも胸が痛い。こんなにも彼女を愛してしまったが故に実が生ったのなら、マノエルにはこれ以上ないほどの皮肉にしか思えなかった。