――それから3日が過ぎたその日、トゥーラは町で果物を売ると家までの道を歩いていた。起伏の多い場所を越えればそこからは平坦な森となり、丈の高い草をかき分けながら進む悪路もじきに終わる。木陰では果実の蔓が大樹の幹を飾るように巻きつき、熟れて落ちた実の酸味の強い香りが辺りを満たしていた。小鳥たちが現れた人間に驚き飛び去るその上で、より大きな鳥たちは風を受け高みを優雅に飛んでいる。

“そろそろ少し休もうかしら”

 拓けた場所で腰を下ろしたトゥーラは近くに落ちた実を取り、割れた場所から覗いているゼリーのような種子を口に含む。つるつるとした喉越しのそれは酸味の中にも甘さがあり、果樹園のものとはまた違った風味は彼女の好みだった。もう少し持ち帰ろうと思ったトゥーラは再び立ち上がり、帰る道すがら熟れたものを拾っては背負った籠に入れる。そして家が見え始めたところで最後の数個をその手にした時、騒がしい鳥の声に続いてすぐ傍に新たな実が落ちた。

「……!」

 それは落ちて弾けた瞬間から信じられぬほどの香りを放ち、引き寄せられるようにしてトゥーラは思わずその実に手を伸ばす。甘酸っぱく熟れた香りは芳醇な葡萄酒のそれにも似て、すぐ近くに見えている家に帰ることさえももはや待てない。彼女は柔らかい皮を震える両手でそっと割り開くと、一層甘く立ち昇る香りに魅せられ果実を口にした。あふれる果汁は唇の端を伝って喉まで垂れていく。指の間からも滴るそれはぽたぽたと地面に落ちるが、はしたない姿を省みる余裕など残ってはいなかった。
 この世のものとも思えぬような甘く芳しいその果物。一口食べる毎にもっと欲しいという欲求は強くなり、できるだけ長く味わっていたいと思ってももう止められない。初めて知った味でありながらそれはなぜか懐かしくもあり、トゥーラは何かに囚われたかのように無心でその実を食べた。あっという間にそれを食べ尽くした彼女はやっと我に返り、慣れ親しんでいるはずの果実に示した反応に驚く。ふと手を見やれば両肘までが果汁でべたべたと濡れており、トゥーラは家路を急ぐと汲み置いた水を浴び汗を流した。
 温い水が彼女の肌の上を幾度も滑っていく間、朝市で見た光景を思い返しトゥーラは吐息を零す。仲睦まじく腕を組んで歩いていた同年代の男女、幸福であるということが隠しきれないようなその様子に、彼女は心のどこかで小さな孤独と寂しさを感じた。トゥーラには恋人と呼べる存在がいたことは1度もなく、彼女の全ては義父から引き継いだ果樹園のためだけにある。町の市で声をかけられた経験は片手では足りないが、その中の誰とも親密になりたいとは思えなかったのだ。
 それでも親しくなりたい相手がいるのかと問う者があれば、トゥーラの心は1人の男を想い描いてしまうだろう。その名前以外住まいも仕事も何1つ知りはしなくとも、傍にいるだけで彼女の全ては優しさで包まれてしまう。触れられた手から伝わる想いを知りたい相手は彼だけだ。知りたい――謎めいたマノエルという人物のこと全てを。

「――っ!?」

 彼のことを想った瞬間、トゥーラの心臓がどくんと鳴る。若い身体は熱く火照りだし、下腹部のあたりから何かが溶け出す感覚が治まらない。

“……な、に……?”

 マノエルのよく響く声はまるで穏やかな囀りのようで、耳元で囁いてくれたならばどんなに甘美なことだろう。もし彼の長い指が、唇がこの肌をまさぐって辿り、そして誰にも触れられたことのない場所にまで届くとしたら――。

“だめ、何を考えているの……!”

 きゅっと目を瞑り頭を振ったトゥーラは水滴を拭いていく。マノエルは確かに魅力的で心惹かれずにいられないが、彼が同じような好意を抱いてくれることなどないだろう。マノエルは単なる顧客で、それより近しくなる方法など彼女はとても思いつかない。ただでさえ年長の彼にとってトゥーラはあまりにも幼く、想いを寄せられているだなどとは想像したこともないだろう。マノエルは誰に対しても同じ態度で接しているはずで、その優しさに触れられる相手ももちろん彼女1人ではない。今まで彼が示してくれた数えきれない心遣いにも、特別な意味が込められていたらと期待するのは迷惑だ。
 あるいは想いを交わした相手がマノエルにはいるのだろうか? それを思うといつでもトゥーラの胸には鈍い痛みが走る。彼に想いを告げられたならばどんな女性も拒みはしない。金の眸に見つめられ愛の言葉を囁き合える相手。他の誰とも異なった特別な絆で結ばれた相手。生涯にただ1人と定められたその相手になれるならば、どんな困難が立ちはだかろうと決して離れはしないだろう。
 なぜ今日はこんなにもマノエルのことばかり思い浮かぶのだろう……だが水気を拭ったばかりのトゥーラが着替えを手に取ったその時、入り口の扉が叩かれる音が部屋の中に響き渡る。

「トゥーラ、そこにいるか?」
「!」

 続けて耳に届いたのは間違えようもないマノエルの声。頼りない薄布1枚を巻きつけた姿なことも忘れ、咄嗟に戸口に駆け寄った彼女は無意識に扉を開ける。果たしてそこに立っていたのは恋しい相手に他ならないが、トゥーラの意識は彼を見た瞬間に千々に煌めいて消えた。

「……トゥーラ……」

 ふらりと一歩家の中に足を踏み入れたマノエルの声は、変わらぬ声音でありながらどこか震えているように聞こえた。いつもと同じ落ち着いた姿におかしなところなどないのに、黄金色の眸にはあらゆる感情があふれ出している。トゥーラはあたかもその視線で雁字搦めになったかのように、身動き1つできないままただ彼の前に立ち尽くしていた。
 もし彼女が何かを伝えようと口を開いていたとすれば、声になった言葉などきっとたった1つしかなかったはずだ。だが今のトゥーラにはマノエル以外のあらゆることは意味を無くし、次に彼が取るであろう行動を待つことしか許されない。そして彼女を見つめていたマノエルがその腕をふいに伸ばした時、トゥーラの身体を縛り付けていた戒めは一瞬で解けた。

「……っ!」

 同じように引き寄せ合った2人の唇がすぐに重なる。そうしなければいけないと身体の奥で本能が訴えた。熱い舌が絡み合い、激しい口づけはいつまでも続く。あらゆる段階を飛び越え、最後まで辿り着くことをトゥーラは自身の身に許したのだ。
 いつしか身体を覆っていた布は音もなく床に舞い落ち、彼女は生まれたままの姿でマノエルの腕に抱かれていた。豊かな胸の先は痛いほどに張り詰めて愛撫を待ち侘び、撫でられる背中からは快感が身体中を支配していく。普段のトゥーラならばあり得ないような大胆な行為さえも、今の彼女には何ら引き留めるよすがとなり得るものはない。長い間秘め続けていた想いに突き動かされるように、トゥーラはマノエルの口づけを求め、またそれに深く応える。

「トゥーラ……!」

 横たえられた先の床は火照った肌にひやりと心地良く、激情を抑えた彼の声に娘の身体は酷く疼く。急かすような手つきでシャツのボタンを1つ1つ外しながら、トゥーラは彼が欲しいという感情以外の全てを忘れた。
 開け放たれたままの扉、暑く気怠い夏の昼下がり。2人は何も纏わずお互いの身を抱き合い、そして――。

「トゥーラ……君を愛している」

 そう告げたマノエルの昂りがゆっくりとその場所を穿った。