群れの中で最も速く飛べるマノエルよりも敵は速い。そんな相手の攻撃を躱し、その上で急所を突かねばならない。姿を変えれば元の身体よりも反応が鈍くなる以上、このまま鷲と対峙して勝ってこの場を去らせることでしか彼が生き延びる術はない。それは至難の技だったが、分かり合えない相手ならば実力に訴えるしかなかった。

「やる気か……面白い」

 薄笑いを浮かべた鷲は恐ろしい速さで急襲をかけ、その嘴でマノエルの翼を根こそぎ喰いちぎらんとする。

「!」

 間一髪で身を引いたものの、紅い羽根が数枚虚空を舞う。それはあたかも血のように不吉で、マノエルは鳩尾の辺りが冷たくなっていくのを感じた。

“速い……!”

 木立すれすれまで急降下した鷲は既に空高くにおり、抜きん出たその飛行能力は彼の自慢でもあるのだろう。もはや逃げることなど不可能だ。背を向ければその瞬間に敵は爪を広げて襲いかかり、マノエルに待っているのは壮絶な苦痛の果ての最期のみ。

“トゥーラ……私は必ず帰る、待っていてくれる君のところへ”

 だがマノエルとてみすみす餌になるために戻ってきたわけではない。既に仲間は逃がした以上、後はトゥーラの元へ帰るために全てを懸け戦うだけだ。何も言わずに今生の別れを迎えることなどあり得ない。彼女と離れることはもとより、生まれてくる仔を見ずに死ぬことなどできるはずもないのだから。

「……っ!」

 鷲の2撃目に合わせてこちらも反撃を試みるものの、それを予期していた相手の爪が鋭く尾羽を掠めていく。

「とりあえずの餌はお前か。王を喰らえばより強くなると言うが、そいつは本当かな……」

 続け様に襲いくる敵。何枚もの羽根が舞い落ち、それに僅かな血が混じり出した。攻撃を加えようとしても相手は一瞬で距離を離し、またその嘴でマノエルの心臓を抉り出そうと飛んでくる。堅い木の実の殻をも砕くマノエルの一族の嘴も、戦う決意を固めたところで敵に当たらねば意味がない。一方的に為すがままにされる彼の姿は痛々しく、勝負が決するのはもはや時間の問題のように思えた。

「腹の減る匂いがしてきたな。そろそろ終わりにするとしようか」

 最高に速度を上げられるだけの距離を離した大鷲は、笑いながらそう言うとマノエル目がけ一気に奇襲をかける。だが――。

「ぐあ……ッ!?」

 大空に響き渡る叫びを上げた鳥の羽根は灰色だ。紅い羽毛を引きちぎられ、肉に爪を突き刺されながらもマノエルは鷲の右眼を突く。あまりにも速い敵に確実な打撃を一矢報いるため、彼はその身を囮とすることで鷲の自由を奪ったのだ。痛みと怒りで狂ったように暴れる敵は鉤爪を閉じ、マノエルは自身の骨が折れそうに軋んでいるのを感じる。これ以上長引けばこちらの身体がばらばらになってしまう。

“消え失せろ……!”

 彼が嘴をぐっと深く突き刺して一撃を与えると、鷲はマノエルを蹴り飛ばすように跳ね除けてから呪詛を吐いた。

「貴様……殺してやる。殺してやる、必ず……!」

 だがもはや左の眼しか見えていない敵の飛行は不安定で、右の眼窩から滴る血は黒灰の羽毛を紅く染める。狂気と屈辱に満ちた鳴き声を天高くに響かせると、片眼の潰れた猛禽はよろめきつつどこかへ去っていった。

「う……!」

 鷲の影が見えなくなると、マノエルは危機が去ったことを仲間へと伝えに行こうとした。しかし身じろぐ度に全身が引き裂かれそうな痛みが走り抜け、彼もまた普通に羽ばたいて飛ぶことなどとてもできそうにない。すぐに死には至らないだろう。だが森の中で倒れれば他の敵に狙われんとも限らない。弱って死にかけた鳥など彼らには格好の獲物なのだ。身体から止め処なく流れる血は新たな危険を引き寄せる。

“トゥーラ……”

 これ以上飛べなくなる前に彼女の元へと戻らなくては。薄れゆく意識の中でマノエルが思ったことはそれだけだ。

“必ず……君の、元へ……”

 どこをどう飛んだかもわからぬまま彼はただその場所を目指す。最後は半ば落ちるようにして果樹園の隅に辿り着くと、出てきた時は青かった空には星々が見え始めていた。

「――マノエル!?」

 トゥーラの驚きと恐怖に上ずった声が戸口で聞こえる。マノエルは目を開けずとも彼女が駆け寄ってくるのがわかった。

「マノエル……マノエル!」

 彼を抱き上げた細腕は恐ろしさのあまりに震えている。すぐに戻ると言っておきながら、こんな姿で帰ったことを何と言って謝ればいいだろう。

『トゥー、ラ』
「マノエル!」
『すまない……君に、心配を……かけて……』

 雫が落ちてくる。雨だろうか? いや、そうではない……。

『泣か……ないで、くれ。トゥーラ』
「何があったんですか? こんな……こんな酷い怪我をして」

 野生の鳥の手当てなど彼女は経験したことはないだろう。人間の姿になった方が安心させられるかもしれない。だが今の傷ついたマノエルにはもうそんな力も出せなかった。

『少し……無理をしただけだよ。仲間が……』
「仲間――あなたの?」
『襲われて、いたんだ。もう心配ない……が……』
「……!」

 トゥーラの指先が強張る。彼女にも、仲間にも結局迷惑をかけているばかりだ。どちらか1つを選ぶことなど自分にはできないのだろうか……。

“トゥーラ、すまない……”

 途切れがちな意識の中で、彼はぬるま湯がこびりついた血を落としてくれたのを感じた。塗られた人間の薬が傷に染みる痛みに叫びを上げ、無意識のうちに羽根を広げてそれから逃げようとするものの、深く傷ついた翼は既にマノエルの自由にはならない。宥めるように伸ばされた優しい2本の腕へと縋りつき、恋しい娘の愛を乞い無心でその嘴をすり寄せる。そっと抱かれたトゥーラの胸は温かく彼の身を包み込み、マノエルはようやく戻るべき場所に帰ってこられた気がした。

“……トゥーラ……”

 柔らかな布の上に横たえられたことを感覚で感じ、優しい香りにマノエルはそれがトゥーラの寝台だと気づく。人の姿で愛を交わせる残りも少ない貴重な日々を、自分の身勝手で過ぎ去らせてしまうのは酷く悔しかった。これも自らの甘さが招いた事態だとわかっていながら、それでも明日また同じように仲間の危機に直面したなら、全く同じ行動を取るだろうことがとても苦しかった。
 トゥーラを心から愛している。だが仲間も見捨てられはしない。それでもやはり自分が帰りたいと思う場所はここしかない……命の限り愛を歌うことを誓った彼女の隣しか。

「私はここにいます。マノエル……あなたの傍に」

 まどろみの中でトゥーラの手が柔らかく彼の翼を撫でる。それはこの世のものとも思えないほど甘く幸福な行為だった。すぐ隣に彼女がいてくれる、それはどんなにかマノエルの疲れ果てた身を癒してくれたことだろう。命を懸けた熾烈な敵との戦いを終えた彼にとって、愛する番いの傍で休息をとる以上の安らぎはない。

「マノエル、あなたを愛しています」

 トゥーラの優しい香りに、その温もりにマノエルは包まれる。あふれるほどの愛を感じ、ひと時翼を休める幸福。できることなら今すぐ人となり彼女を強く抱きしめたい……自分はもはやトゥーラへの愛のためだけに生きているのだから。

「私はずっと傍にいます。だから今は……ゆっくり休んでください、マノエル……」

 愛する彼女の腕に抱かれながら囁かれたその言葉に、彼はようやく深い眠りに落ちることを自らに許した。