帰ってこなかったマノエルをトゥーラは当然心配していた。川までは人の足でさえ10分もかからず着けるのだから、空をも飛べる彼が戻らないのは明らかにおかしなことだ。何度も戸口に立ち、彼が歩いて行った方角を見つめたが、愛しい男の姿どころか羽虫の1匹も見かけない。
森で何かが起こっている、そのくらいは彼女にさえわかる。恐らくはそれに彼が巻き込まれているのだろうということも。今までのトゥーラならばじっと待っていることなどとてもできず、自ら森の中へと駆け出しマノエルを探していただろう。だが立っているのも辛い身となった今ではもうそれも叶わない。
“マノエル、無事でいて……!”
時間の進みは遅く、不安は尽きず大きくなるばかりだ。しかし夕焼けが橙色の光を窓から投げかけ始めた時、彼女は不規則な羽音に続き何かが落ちた音を聞いた。悪い予感に駆けつけたトゥーラが見たものは傷ついた鳥で、腹部の白い羽毛の一部は乾いた血で変色している。辺りに散らばる毛羽立った紅い羽根は見覚えのあるもので、彼女はそれが自分の夫たるマノエルだとすぐに気づいた。
なぜこんなことになったのか、あらゆる思いが胸を満たすが、トゥーラはただ泣きながら彼を抱きしめることしかできなかった。
『トゥーラ……トゥーラ』
それから彼女は血で汚れたマノエルの身体を湯場で洗い、苦しむ声に心を痛めつつ簡易な手当てを施すと、綺麗に整えられた自らの寝台へと彼を寝かせた。そして夜も更けた今もなお、マノエルは熱に浮かされたようにトゥーラの名前を呼び続ける。
「私はあなたの傍にいます。絶対にここを離れたりしません」
時折魘されてはもがくように翼を広げる彼を抱き、安心させるように娘は何度も繰り返しそう囁く。痛々しい怪我をした場所を癒すように優しく撫でる度、マノエルはしばし安らかな眠りに就いているように思えた。
“マノエル……”
彼は仲間にとって一体どんな存在だったのだろうか。命を賭して群れを護ろうとする姿は尊いほどだが、それでも危険に自ら飛び込むようなことはしてほしくない。トゥーラ自身の伴侶として、また生まれる仔の父親として、2人を遺していなくなるようなことだけは避けてほしかった。
さりとてその崇高な精神は窮地にある仲間を見捨て、彼女の元へ留まることを良しとしないこともわかっている。マノエルが彼である限り、全てをトゥーラと子供に捧げて生きることは不可能なのだ。だがそんなマノエルだからこそ種族を超えるほどに愛したことを、彼女は自分の運命を選択する時に理解していた。
“マノエル……あなたを愛してる。愛しているの、ずっとあなたを”
心細く寂しい夜更け。人間の男であれば寄り添って抱きしめてくれることだろう。服を脱ぎ、肌を合わせ、お互いの温もりを分かち合うことも決して難しくはない。だがトゥーラはそれらの歓びをしばらくすれば全て手離すのだ。彼女が唯一愛したのは傷つき、疲れ果てた身体を横たえているこの紅い鳥で、その真心を受け取ることを自分自身で選んだのだから。
もはやトゥーラはマノエルの姿を見ているわけではなかった。言葉さえ交わせなくなる時がもうすぐ近くまで迫っていても、彼と心を通じ合わせるあらゆる手段を試みていた。それぞれ違う生き物なのは人間の男女でも変わりない。彼女は単に心が1つだと感じる相手とめぐり逢い、その生涯の伴侶は翼を持ち合わせていただけのことだ。
そんなことは誰にも理解されない考えとはわかっている。誰かに話したところで頭がおかしいと言われるだけだが、真実はマノエルとトゥーラだけが知っていればいいことだった。彼も1度は仲間と決別してここにやって来たのだから、その口からは何も語らずとも人間と交わったことは、群れを離れるに値する禁を破ったということなのだろう。
それでも仲間を護るためにマノエルは彼らの元へ行った。そんな彼を責めることなどトゥーラにはとてもできるはずがない。高潔で、限りない優しさを胸の内に秘めたマノエル。彼が古巣を離れる時、仲間たちとの間には果たしてどんな会話があったのだろう。きっとそれを尋ねたところで答えてはくれないに違いない。トゥーラにはただマノエルの心を思うことしかできないのだ……。
「マノエル、あなたが好きです……あなたがどんな姿でいる時も」
秘密を打ち明けるような声で囁くと彼女は目を閉じて、夫の冷たい嘴にそっと自身の唇を重ねる。体温を分け与えるようにトゥーラから繰り返されたそれは、1羽と1人が深く結ばれている静かな愛の証だ。こうしている間にも彼女の身体の中で子供は育ち、次に月が満ちればその仔が生まれ出づる日もいよいよ近い。それまでにあとどれだけの言葉をマノエルと交わせるだろうか。あと何回人の姿で愛し合う時間が持てるだろうか。寄り添って生きるこれからの日々を彩ってくれる思い出を、あといくつ彼と2人で一緒に作ることができるだろうか。
「……あなたのお父さんよ。早く元気になってってあなたもお母さんとお祈りしてね……」
今や丸く突き出した腹部に柔らかく両手を当てながら、トゥーラは夜の闇の中でそっと我が仔へとそう語りかけた。
「ん……」
妊娠してから先、あまり長く眠ることはできていない。だが誰かに触れられている感覚に彼女がやおら目を覚ますと、窓から射し込む光は既に夜が明けたことを告げていた。
「おはよう、トゥーラ」
「マノエル……!」
黒蜜色の髪を撫でていたのは間違いなく彼だったが、目を背けたくなるほど酷い傷が痕となって残っている。
「だめ、この姿でいるのも力を使うんでしょう? 今はまだ――」
「いいんだ、トゥーラ」
力も入らない傷だらけの腕でトゥーラは抱きしめられる。そして彼女が何か二の句を継ごうとするのを遮るように、マノエルは優しくも深い口づけでその唇をふさいだ。
「マ……ノエ、ル……」
震える指先がトゥーラの頬に零れ落ちた髪をかき上げ、黄金色の眸は切なく細められて彼女を見つめる。
「君の元へ戻れたことを……君と一緒にいられることを、こうして確かめられる私は世界で1番幸せだよ」
「……!」
その姿でいるだけでも相当な無理を押しているだろうに、なぜマノエルはそんなにもトゥーラを一途に求めるのだろうか。鳥の姿でいる時にも、この夜の間だけで何度彼女を呼ぶ声を聞いただろう。人の言葉を伝えることさえできないほど弱った時にも、その鳴き声は間違いなくトゥーラの温かさを求めていた。
何も知らなかった彼女と違い、マノエルは昔からトゥーラが相容れぬ種族だと知っている。それでいてここまで深い愛を抱くようになるまでの間、彼にも禁忌の想いに葛藤した時期があったのだろうか。本来ならば番うことなどあり得ない相手に焦がれた日々。周りの仲間が伴侶を見つけ、卵を温めている時、金の眸を持つ真紅の鳥は何を考えていただろう。
生まれに反する想いに苦しまなかったことなどあり得ない。だからこそマノエルはこんなにもトゥーラの愛情を求めるのだ。あらゆる障害を振り切ったからこそやっと手にできたものを、自らの全てと引き換えに得られたものを確かめたいのだ――鳥と人との間に芽生えたこの愛は幻ではないと。
「心配させてすまなかった」
消え入りそうなその声にトゥーラは目を閉じると彼の背を抱く。再び交わされる口づけは終わることなくいつまでも続き、彼女は改めてマノエルの限りない愛を知ったのだった。