「トゥーラ、この辺りで少し休――トゥーラ!?」

 夏の暑さが峠を越し、秋の気配が近づいたその日。少し外へ出たいと言ったトゥーラにマノエルは付き添っていた。大きな帽子を被った彼女を気遣いながら森を歩き、太陽の暖かさを感じつつ散歩をするのは気分がいい。しかし家からしばらく歩いてきたその場所でつと振り向いた彼は、真っ青な顔で座り込んでいるトゥーラに言葉を失った。

「トゥーラ、まさか――」
「マ、ノエル……」

 急に強く吹いた風はつばの広い彼女の帽子をさらい、声も出せずに蹲るトゥーラの双眸には涙が滲む。その姿を前にしたマノエルは月が満ちたことを悟った。数日来頻繁に張りを感じていた彼女の体調が、朝から驚くほど良かったことはこの前触れだったのだろう。

「待って――行かない、で」

 トゥーラを抱き上げて家まで走ることは既に不可能だった。額に汗した番いは突然の陣痛の痛みを堪え、必要なものを取りに戻ろうとした彼の腕に縋りつく。

「トゥーラ、だが――」
「大丈夫……あなたが……いてくれれば、それで」
「……っ!」

 独りにしないでくれと懇願しているその声に応えたい。だがこんな森の中で万一のことがあればとても悔やみきれない。彼女にはマノエルだけが頼りだからこそその思いは強く、彼は今この瞬間何を為すべきかを必死に考える。仔を産むことはできるだろう。しかし圧倒的に道具がない――熱い湯も、清潔な布も、生まれた子供に着せる産着も。

「心配ない、ここで産もう。でもそのためには準備が要るよ」
「…………」

 地面に横たわり苦しそうに短い息を繰り返しつつ、トゥーラはあまりの心細さについに涙を零していたが、傍にいてほしいと言いたいところを堪えてその手を離した。

「トゥーラ、ここで待っていてくれ。私はすぐに戻ってくるから」

 そう口にした瞬間に彼の脳裏をよぎる不吉な予感。少し前にそう言った時、自身の身に起こったことを思い出したマノエルは目を伏せる。しかしそんな思いを振り切るように彼はトゥーラへとキスを贈ると、見事なほどの紅い翼を羽ばたかせて愛の巣を目指した。人の足、それも身重の妊婦で15分程度の距離など、空を舞える鳥の姿ならばほんの一瞬で辿り着ける。だが見えてきた小さな家に降り立とうと姿勢を低くした時、地の底を這うような声と共にその襲撃者は現れた。

「……見つけたぞ……!」
「!!」

 野生の生き物が持つ本能で咄嗟に羽根を翻せば、マノエルの身体があった場所を鷲の鉤爪が抉っていく。

「お前は……!」

 黒が混じる灰色の翼をしたその猛禽は隻眼で、獰猛さを増した片眼は執念からか暗く濁っていた。マノエルの金の眸に映し出されているのは紛れもなく、大怪我と引き換えに撃退したあの日の大鷲の姿だ。

「探したぞ、赤羽根。この右眼の借りは返させてもらう」
「!」

 鋭く曲がった嘴が、骨を折り血を噴き出させる爪が、青い大空を斬り裂きながら無防備な彼に襲いかかる。その飢えを満たすためでなく、マノエルを殺すためだけに隻眼の鷲はここへ現れた。もしこの鷲が獲物を探して悠々と偵察していたら、敵の気配に敏感な小動物たちは身を隠し始め、それはやがて森全体の雰囲気をも変えていたことだろう。しかし復讐に狂った鷲はただ憎い仇だけを狙いすまし、他のものには脇目も振らず命を奪いに飛んできたのだ。
 トゥーラの傍でほぼ人の姿を取り続けていたマノエルが、本来の姿に戻ったのはあの怪我を負って以来だった。恐らく鷲はその姿を、彼の独特な気配をどこかからずっと探っていたのだろう。マノエルたちの種族よりも遥かに速く飛べる敵にとって、警戒でき得る範囲の外から襲撃するなど造作もない。

「お前の気配がありながらも見つからずにいた理由わけがわかった」

 いたぶるように鉤爪を振りかざしながら大鷲は嘲る。

「確かにお前は王だったな、姿を変えていたというわけだ。だがそれで人間の女と番うとは正気とも思えんが」
「……!」

 その言葉からマノエルは相手がトゥーラと自分の関係を、恐らくはこちらが思う以上に知っているだろうと気づいた。反撃を試みるものの、灰色の翼は寸前でひらりと彼の嘴を躱す。

「鳥の誇りも失ったか、この翼を捨てた恥晒しめ。それであの雌は何を産む? 目に映すに耐えない化け物か?」
「――っ黙れ!」

 マノエルを待ち構えていたかのように鉤爪が振り下ろされ、羽毛が毟られた翼から腹部にかけて鮮血が舞った。

「私は何を言われてもいい。だがトゥーラのことは侮辱するな……!」

 羽ばたく度に血は滴り、紅い雨となって地へと落ちる。だが誇り高き彼は番いを辱められることを許さない。彼女の名誉を護るため、マノエルは黄金の眸に凶悪な敵を捉え続ける。

「トゥーラ? ……ああ、あの人間か。お前はすっかり陸の生き物になり下がって久しいようだ。空も飛べない者と生きて群れを捨てた愚かな王だからな」

 大空を舞う者たちは時に地上に生きる者を見下す。しかしマノエルはそうではなかった。それぞれに生きるべき場所や選ぶべき生き方があるとしても、それでもなお彼が選んだのはトゥーラの隣で生きることだ。生まれによって定められた運命に逆らって生きる道を、1人と1羽はその生涯を通じて選ぶことを誓った。彼らの誇りはどれだけ詰られようと輝きを失わない。

「お前に私の何がわかる!」
「わかりたくもないな。穢れきった屑が一体何をほざく……お前からはもう人間の臭いがしていると気づいているか?」

 嘲笑う鷲はマノエルの攻撃を誘いつつそれを躱し、その身に備わった鋭い武器で徐々に彼を傷つけていく。敵が最初からマノエルを殺すためだけに現れた以上、どこに逃げようと相手は必ず彼を追いかけてくるだろう。全力で立ち向かい、今ここで敵を倒さねばならないのだ。

「うあ……っ!」

 だが相手が恐ろしい速さでこちらの攻撃を躱した瞬間、マノエルの身体に2本の鉤爪が肉を引き裂いて食い込む。ぎしぎしと軋む全身の骨に更なる力が加えられ、もがけばもがくほどに締めつけられる枷からは逃れられない。既に裂かれた背中の傷痕を大鷲は嘴で抉り、自らの肉を喰いちぎられたマノエルは耐えきれず叫んだ。

「お前の肉は味気ないな。まあいい……お前は四肢を潰した後でこのまま死んでもらおう。番いと仔の方で腹を膨らませるのはその後でいいしな」
「!!」

 いかに大きな鷲とはいえ、その狩りの対象として人間を襲うことはほとんどない。赤子でもなければ鉤爪で宙へと持ち去ることは元より、一撃で致命的な傷を与えることも不可能だからだ。しかし相手がろくに動けず抵抗もできないなら話は違う。驚異的な力を誇るその足で獲物の骨まで砕き、バラバラに引き裂いてからゆっくりとどこへなり運び去ればいい。そんなことは捕食者たる鷲のような者には容易なことで、大した時間もかけずに空腹を満たす餌にありつくだろう。それ故にこの大鷲はトゥーラとその子供さえ狙っている……。

「彼女に触れるな!」
「!?」

 激しく抵抗したマノエルは一瞬の隙を突いて逃れ、悔しげに一声鳴いた相手を力の限り睨みつけた。既に数本の骨が折れ、翼からは血が流れているが、彼は絶対に退かないという覚悟も露わに立ちはだかる。

「私の妻の元へは行かせない……!」
「ほう、できるならやってみろ!」

 2羽の鳥たちは空の上で命懸けの一騎討ちを交わす。マノエルは何があろうと必ず護らなければならないのだ。唯一愛した彼の妻を、そして待ち望み続けた我が仔を。