「マノエル、あなた……あなたは、もう」

 トゥーラの震える言葉に鳥たちは衝撃を受け黙り込む。助けることはできなかった――王の命はもう僅かなのだ。もっと早くマノエルたちを群れの中へと迎え入れていれば、きっとこんな残酷な運命は避けられたに違いないのに。

『トゥーラ、それでも私は……今もずっと愛している、君を……』

 マノエルは途切れがちな意識の中で彼女にそう囁いた。どんな死に方であろうとも、トゥーラの傍らで迎えられる最期は最高の幕引きだ。既に痛みの感覚はなく、恐怖心すら遠くなっている。今はただ彼女の傍で少しでも長く語り合っていたい。

『君と出逢えてよかった。君と……愛し合えて』
「お願い……言わな、いで、そんなこと……!」

 トゥーラの手が彼に伸ばされ、畏れてでもいるかのようにその紅い翼に触れようとする。

「嫌……愛しているの。マノエル……私だって愛しているんです、あなたを……!」

 だが白い指先がマノエルの真紅の羽根に重なろうという時、彼女の顔が苦痛に歪み身体が痙攣しながら跳ねた。

「あぁ……あ、ぁ……!」

 子供が生まれるその瞬間はもうすぐそこまで迫っている。次にトゥーラが母となるための大きな痛みを覚える時、空と大地の2つの血を引く仔はこの世に誕生するだろう。聞いているだけで目を背けたくなるような絶叫が響くが、覚悟を決めた鳥たちは1羽たりともその場を離れはしない。

「マノエル……マノエル! あぁあ……っ!!」

 ――そしてその時がやって来る。一瞬の静寂の後で倒れ伏した彼女の衣服の下、運命の仔が上げるであろう鳴き声も泣き声も聞こえない。

「……っ」

 未だ呼吸を乱した母親は残る気力を振り絞ると、身を起こしスカートの裾を少しずつゆっくりとめくり上げる。静まり返ったその場で集まった者たちが目にしたものは――。

「……!」

 そこで身を丸め母の腕を求めていたのは人の子だった。しかしその背には小さいが燃えるような紅い翼の形がある。それはまさに人間たちが天使と呼ぶ存在にも似ていて、トゥーラの頬には喜びの涙が新たに伝っては落ちた。

「ああ……!」

 言葉にならない喜びをその緑の眸に宿しながら、彼女は生まれたばかりの我が子を恐る恐る両腕に抱く。それを合図に弾かれたように泣き出した赤ん坊の声は、どこか鳥の雛が母を呼ぶ時に上げる囀りに似ていた。

「マノエル、見てください――マノエル?」

 母となった輝きに満ちたトゥーラは子の父親を振り向く。だが鮮やかな紅く長い尾羽はもうぴくりとも動かなかった。

「……マノエル……?」

 子供がつと泣き止んだ時、囁くようなその声は静けさの中で痛いほどに響く。

「嘘、そんな……」

 マノエルの黄金色の双眸は安らかに閉じられたまま、顔を上げることもなければ番いの呼びかけにも答えはしない。

「あなたの子供が……生まれた、のに」

 王の忘れ形見は何も知らず再び元気に泣き出した。そして群れの中からも抑えきれない嗚咽が響き始める。

『嘘だ、こんなこと……!』
『そんな……マノエル様が……』
『ああ! どうか目を開けてください!』

 ルカスは愕然として力尽きた王の亡骸を見つめた。きっと眠っているだけだ……だが決してそんなはずがないことを彼は誰より知っている。マノエルが彼である限り、かくも大きな喜びを妻と分かち合わないなどあり得ない。

「マノエル……!」

 トゥーラは子を胸に抱いたまま紅い翼の上に身を伏せた。涙は王の羽根を濡らし、流れた血を洗い流していく。彼女は愛した夫の名をいつまでも呼びながらすすり泣き、周りの木々に留まった鳥たちも悲嘆のあまりに鳴いていた。

「マノエル、どうして……!」

 2人で子供の名前を考えつつ過ごした穏やかな日々。最後は生まれた子の顔を見てからにしようと言って微笑み、幸せそうに腹部に触れてくれた手をまだ覚えているのに。
 マノエルの帰りを独り陣痛の痛みに耐えて待つ間、少しずつ辺りに鳥たちが集まっていたのは気づいていた。トゥーラが生まれてからずっと傍にはいつも彼らがいたものだ。その昔彼女が腕に抱く赤子のように小さかった頃、義父との出会いを見つめていたのもこの種族の鳥たちだった。トゥーラが唯一愛した夫との永遠の別れの時も、彼らはまた同じ悲しみを知る者として娘に寄り添う。

『……さん』

 だがその時、止め処なく涙を流す彼女に誰かが呼びかけた。

『……あさん……お母さん、泣かないで』
「――っ!?」

 トゥーラははっと顔を上げる。その声が聞こえたのは間違いなく彼女の腕の中からだ。信じられない思いでトゥーラが抱いている赤子に目をやると、子供は黒い眸で真っ直ぐにその母親を見上げている。

『泣かないで、お母さん』

 それはマノエルが本来の姿の時にそうしていたように、彼女の心の中に直接語りかけてくる言葉だった。

「まさか……あなた、なの……?」
『うん。そうだよ』

 微笑むような仕草を見せた赤ん坊は母親にすり寄り、驚きのあまり目を丸くするトゥーラへと再び呼びかける。

『お母さん、僕がもう1度お父さんを元気にしてあげる』
「えっ?」
『だからもう泣かないでね。お母さんが泣いてると悲しいんだ』

 生まれたばかりの赤子の小さな手が彼女の指先に触れ、それはまるで母親の悲しみを慰めているように見えた。そしてトゥーラがその言葉の示す意味を考えるより早く、子供の身体はだんだんと柔らかい光に包まれ始める。

『どんな姿でも僕はずっとお母さんの子供だよ。忘れないで……』

 赤ん坊の輪郭は閃光のような輝きの中に消え、鳥たちもトゥーラも皆目を閉じてその眩い光に耐えた。それが徐々に収まった後でゆっくりと目を開いた彼女は、腕の中の喪失感に気づき慌ててその視線を下げる――すると、そこには。

「え……!?」

 疎らな紅い羽毛を震わせた雛が健やかに鳴きながら、まだ柔らかい嘴で母親の掌を啄ばんでいた。

「……う……」
「!!」

 しかし信じられないことはまだそれだけで全て終わったわけではない。すぐ傍で聞こえた呻き声にぎょっとして振り向いたトゥーラは、声を上げることさえも忘れて身じろいだ男を目に映す。

「トゥー……ラ……?」
「……マノエル?」

 長い眠りから覚めたかのように上体を起こした相手は、人間の姿をとったマノエルと同じ外見をしていた。今しがた彼が命を落としたことは確かな事実なのに、再びマノエルと相見えられるとはどういうことなのだろう。

『ほら、言ったでしょ? お母さん』

 ピィ、と鳴き声を上げる雛鳥が自慢げに告げた言葉に、母親たるトゥーラは夫が蘇った理由を垣間見る。子供が人の姿を失うと共にマノエルはそれを得た。2つの異なる種族の間に命を受けた運命の仔、もしその身体に鳥と人間、両方の魂があったなら。
 “母親を大切にできる優しい子になるはずだよ、きっと”――いつかマノエルは子供についてそんな風に言っていたものだ。そしてそれは真実だった。子供は母親の心を満たす深い悲しみを感じ取り、それを癒すことのできる力を持って生まれてきたのだから。
 止まっていた涙は再び喜びのそれとなってあふれる。

「ああ……なんていい子なの、生まれてきてくれてありがとう。いつか私たちの元を巣立っても、私はあなたの母です」

 トゥーラはそう言うや否や羽根を持つ息子をぎゅっと抱きしめた。鳥たちは木々の梢から一斉に歓喜の歌を奏でる……偉大な王と、王妃と、そして王子が起こした奇跡の物語を語り継いでいくために。