「いつか子供に助けられる日が来るだろうとは思っていたが、それがこんなに早いとはさすがに想像もしていなかったな」
「マノエル!」
子供を抱くトゥーラの隣でしみじみとそう言ったマノエルは、すぐに顔を上げた彼女を眩しそうに目を細めて見つめる。
「もう1度君に逢えた。私たちの仔の優しさのおかげで」
トゥーラは止め処なく涙を零し返事もまともにできないが、それでも限りない喜びに満ちた顔はこよなく美しい。
「私にも抱かせてくれないか。父親として息子をこの腕に抱きたいと思っていたんだ」
そう言って伸ばされた手に彼女は頷きながら雛を渡す。小さくも力強い鼓動を通じて仔の温かさに触れ、マノエルは護らねばならないものが増えたことを実感した。
いつその命が尽きたのかは彼自身もわからなかっただろう。しかし出産に苦しむトゥーラへと誰かが呼びかける声を、マノエルは息子が生まれる前からどこか遠くで聞いていた。薄れゆく意識の中で彼を父と呼んでくれたその声は、いよいよ力尽きようというマノエルを励ましてくれていた。だが魂の世界との狭間にいたが故に聞こえたその声が、自らの子供だと気がついた時にはもはや手遅れだった。新たな命として息子が上げただろう最初の産声は、生者の世界を離れてしまった彼には届かなかったのだ。
しかし薄暗い場所にいた彼の意識はすぐにまた呼び戻される。遠い昔の卵の中の如くたゆたっていたマノエルは、ふいに目も眩むような圧倒的な光の帯に包まれ、それが自分の中に吸い込まれていく感覚を経験した。そのまま破裂してしまいそうなほどの光が消え去った後、彼は羽根のように軽かったその身体が質量を伴い、地の上に人の形で横たわっていることに気づいたのだ――息子の人としての命を自身が分け与えられたことに。
「……お前のおかげだ。ありがとう、本当に……」
腕の中の雛の上げる声はどこか誇らしそうにも聞こえ、それには父たるマノエルも思わず微笑まずにはいられない。
「ああ……マノエル!」
そんな父と仔の様子を眺めていたトゥーラは涙を拭い、最愛の夫の名を呼びながら彼を両腕で抱きしめた。離別は再び遠くなり、またこうして触れ合うことができる。その腕に強く抱かれ、熱く口づけを交わすことができる。愛とは何かを教えてくれた相手の温もりを感じつつ、もう2度とそれを失わぬようにマノエルの胸に縋りつく。
固く抱き合った2人の間で子供は幸せそうに鳴き、居合わせた鳥たちの天にも昇るような囀りの中でも、その声は一際高くはっきりと澄んだ青空に響いた。
「さあ……帰ろう、私たちの家に」
息子をその胸に抱いた妻を夫は軽々と抱え上げ、2人と1羽は果樹園の隅の小さな家へと歩き出す。その後ろを、はたまた頭上を、仲間たちは鮮やかな翼を空にはためかせついて行った。
『マノエル様、おめでとうございます!』
『王妃様、王子様、万歳!』
だが高らかに謳われるそれらの言葉が王に届いているのか、ルカスはそんな一抹の不安にほんの僅か嘴を噛む。もし本当にマノエルが人間としての命を得たのなら、もはや彼にとってこの歌も単なる鳥の声なのだろうか……。
『ルカス、こんな喜ばしい時にそんな顔をするものじゃない』
「マノエル様!?」
その語りかけにルカスは思わず声を上げて王を見つめた。顔を上げて微笑んだマノエルの肌にはまだ傷があったが、鳥の姿の時に負った致命的な深手はもう見えない。
『一族の声はまだ聞こえるよ。もう空を飛べはしないだろうが……後は息子が私の代わりを務めてくれるまで待ってくれ。あと3ヶ月も経てばきっとこの仔も元気に巣立つと思う』
「ああ……マノエル様、マノエル様……!」
翼を失ったマノエル、だがルカスにも仲間たちにとっても彼はそれでも偉大な王だ。群れへの、また息子への、そして番いへの深い想いに満ちた、心から誇り敬うことのできる王の中の王なのだ。
「もはや我らと共に飛べなくなってもあなたが群れの王です。王子が巣立つまでの間、どうか我らを導いてください」
最大限の敬意を込めた声でルカスは王にそう告げた。マノエルは小さく頷き、次にトゥーラと息子を眺めてもう1度側近を振り向く。
『だが次に敵が襲ってきたら指揮を執ってもらわねばならないぞ。息子が飛べるまでは早くともまだ2ヶ月近くはかかるし、私もまだ狙ったものを撃つ道具の使い方を知らない』
「そのようなことで御身を煩わせるつもりなどございません。それにそんな恐ろしい道具を手になさるのはおやめください!」
『しかし息子が次の王となることを皆が認めてくれたとしても、まだ解決しなければならない問題が1つ残っている』
「問題?」
王の隣を羽ばたきながらルカスは不安げにそう尋ねた。しかしちらりとそちらを見やったマノエルはどこか決まりが悪そうに、悪戯が露見した子供のような顔で苦笑いを返す。
『……私はトゥーラに自分が王であることを話していないんだ』
「!」
今度こそルカスは地面に転がり落ちてしまうところだった。彼は慌てて体勢を立て直しつつマノエルに問い返す。
「で、ではトゥーラは……いえトゥーラ様は、その仔が次の王となることもご存知ではいらっしゃらないと?」
『簡単に言えばそうなるな』
臣下の筆頭たる自負があれば閉口せずにはいられない。トゥーラとてここまで多くの鳥たちが集っているのを見れば、マノエルが特別な存在であることくらいは気づくだろう。彼は普通の鳥ではない……敬うべき高貴な王なのだ。自分が伴侶に選んだ相手がそんな肩書きを持つことを、王妃と認められた娘は今この時もまだ知らずにいる。違う種族であることさえも乗り越えて愛し合った伴侶が、まさか玉座に就いている者とは考えたこともないだろう。
「それでは王妃が反対なされば王子が群れの次の王に……マノエル様の後を継げない可能性もないわけではないと?」
生まれたばかりの無垢な雛には未来が拓かれているべきだ。その至極真っ当な意見に異論を唱えるわけではないが、王の唯一の雛ともなれば話は大きく違ってくる。勝手な期待を抱くのは僭越極まるとわかっていても、生まれてすぐに大きな喜びをもたらしてくれた王子なら、後々は王として共にあってほしいと誰もが思うだろう。
『きちんと話せばトゥーラはわかってくれる、そう心配するな。我々がいつかは巣立ち空へ帰ることは彼女も承知だ』
「しかし……」
「おじさん、大丈夫だってば」
その時、王と忠臣の会話に突然雛鳥が加わる。トゥーラの掌に包まれた仔は母の手に撫でられるがまま、心地良さそうに首をもたげて父と臣下に向かって告げた。
「そんなに心配しなくても僕はお父さんの後を継ぐから。お母さんだって話を聞いたら応援してくれるはずだよ。でも自分で飛べるようになるまではまだ2人の傍にいたいんだ」
「王子……」
まだ黒い眸をきらきらと輝かせているその姿には、全ての道へと通ずる無限の可能性が秘められている。その目がいずれマノエルのような深い金色へと変わる頃、雛鳥もまた立派な王として群れを率いてくれるはずだ。
「しっかりした息子を持って幸せ者だな、私は……」
「マノエル?」
この場で唯一彼らの言葉を知ることのできないトゥーラは、出し抜けにそう言った夫を不思議そうなまなざしで見上げる。マノエルは深い愛しさを込めて彼女と息子を見つめると、何も言わずに微笑んで首を横に振りトゥーラに口づけた。