「エリオ……エリオ?」

 秋が深まりつつあるその日、トゥーラは庭先で近くにいるはずの息子の名前を呼んだ。その声にすぐ傍の茂みから草木をかき分ける音を立て、鳩ほどの大きさの鳥が彼女の前へと姿を現す。

「もうすぐ暗くなるわ。そろそろお家の中に入りましょう」

 しかしエリオと呼ばれた紅い鳥――マノエルとトゥーラの息子はどこか不機嫌そうな声を上げた。

「エリオ!」

 それでもぴしゃりと母がそう言えば心なしかその背を丸め、エリオは自らの足でよたよたと家の方へ歩いてくる。それは遅くまで遊んでいて怒られてしまう人間の子と、厳しくも愛情深く子供を見守る母そのものだった。
 エリオが生まれたあの日からもう1ヶ月以上の時が過ぎ、トゥーラも今やすっかり鳥の習性を理解し始めている。生まれた時こそ哺乳瓶に絞った母乳で育てたものの、よく遊びよく眠るエリオは瞬く間に大きく成長し、少しずつ自分で餌を探す素振りを見せるようにもなった。あと何週間かすればいよいよ空を飛ぶ練習を始め、自由に羽ばたけるようになれば森の奥へと帰るのだろう……。

「エリオ、お母さんの言うことはちゃんと聞きなさいと言っただろう?」

 そう言いながら戸口で微笑んでいるマノエルの長い影が、温かな家の灯りに照らされて地面の上に伸びている。クゥ、と一声鳴いた雛は父親の足元に駆け寄ると、小さな頭を擦り付けながら仕草で温もりを求めた。息子を抱き上げた父は長い指でその喉元を擽り、エリオの大きな黒い目は満足と幸福で細められる。

「マノエル、ありがとう」

 すぐ隣に歩いてきてくれた愛する夫の顔を見上げ、トゥーラは赤銅色の頬に触れながら彼の名前を呼んだ。
 夜空に月が輝く頃、家の中では幼い雛がその日の冒険を語っている。声が途切れる度に頷くのは専らマノエルの役目だ。あれ以来やはり鳥の姿に戻ることは叶わなかったが、彼は今も仲間たちと心で会話を交わすことができる。それ故に息子の話をトゥーラに語るのも夫だったが、彼女にはどうにも聞かせたくないような都合の悪い部分……例えばトゥーラが焼いたパイを親子でこっそり平らげたこと、あるいは川に水浴びに行ってびしょ濡れになったことについて、マノエルはうまくごまかしながら話していないように思えた。
 エリオが生まれたばかりの頃は昼夜を問わず傍に付き添い、寝起きを共にしながら子供の世話をしてきたトゥーラにとって、こうして目の届かないところで息子が見聞きした体験を、直接知ることができないのは残念であり悲しいことだ。人の子がまだ寝返りを打てるかどうかさえわからない頃に、エリオは彼女の手を離れ仲間のところへ旅立ってしまう。それを思うトゥーラが寂しいと感じないはずがあるだろうか? 例え言葉がわからなくとも、その姿が似ても似つかずとも、彼女はエリオの母であり、血の繋がった親子なのだから。

「トゥーラ、そんなに不安そうな顔をする必要はないんだよ。エリオは何も危ないことはしていないし、心配しすぎだ」

 マノエルから苦笑されつつそう言われたトゥーラは頬を染める。彼に見抜かれている通り、いつも心配でたまらないのだ。彼女が子供と一緒にいられる時間はほんの僅かしかない。同じ森の中にいればいつでもまた会えるとわかっていても、この家に家族が揃う日の残りを常に考えてしまう。その一瞬一瞬はトゥーラにとって何よりの宝であり、息子が危ない目に遭っているのではないかと考える度、彼女は居ても立っても居られないほど悩んでしまうのだった。

「エリオも君にどれほど愛されているのかちゃんとわかっている。信じよう、私たちの息子はありがたいほどに賢い仔だ」
「……ええ、そうですね……」

 たらふく餌を食べたエリオはトゥーラの膝でうとうとし始め、その姿はかつてのマノエルがそうだったものと瓜二つだ。寝ぼけまなこの雛鳥は彼女にそっと頭を撫でられると、嘴を母親の手にすり寄せながら甘えた声で鳴いた。

「君を呼んでいるよ、トゥーラ」

 告げられたマノエルの言葉にトゥーラは涙を浮かべてしまう。親子が一緒にいられる時間はなんと貴いものなのだろう。鮮やかな紅い羽毛に覆われた身体はまだ小さくとも、我が仔の温もりは彼女に大きな喜びを与えてくれる。

「……私は幸せだな」
「マノエル?」

 トゥーラはしばらくエリオを抱いた腕をゆっくり揺らしていたが、夫の静かな呟きが耳に届くとそちらを振り返る。マノエルは柔らかい表情で自身の番いと仔を見ていた。

「ここに君がいて、エリオがいる。私が望んだものの全てだ。トゥーラ、君たちが私に幸福とは何か教えてくれた。こんなに満たされた気持ちを自分が感じられるということも」

 時折この家に彼の仲間が森の奥からやって来ては、何かを話し込んでいるような場面をトゥーラは目にしていた。そして大きく羽ばたき去って行く鳥たちの背を見送る度、黄金色の双眸に寂しげな色が浮かんでいることも。もう大空へ舞い上がることができないというこの現実は、鳥として生まれたマノエルをどれほど苦しめているだろうか。陸しか知らない彼女には思いを馳せることしかできないが、その心を想像するだけで胸が鋭く締め付けられる。
 かつて彼は鳥のままでもトゥーラと添い遂げると言ってくれた。だがその逆ならばどうなるだろう? 自分の本当の姿を失くしても愛してくれるだろうか? そんなことを考えたことは1度や2度ではなかったのだが、それを口に出して尋ねることはこれまでずっとできなかった。種族を超えて愛し合いマノエルの仔の母となった今でも、もし彼が後悔していたらと思うとたまらなく恐ろしい。
 しかし人として生きることにも喜びを見出してくれたら。悲しみをも上回る幸福をマノエルが感じてくれたら、彼女の心の奥に秘められたその悩みも杞憂に終わる。彼という1つの存在の根幹を成しているものたちは、例えどんな姿をしていようと変わることなどないのだから。
 マノエルはそんな彼女の我儘な願いすら叶えてくれる。そして想いを言葉にしてくれる――今こうして告げてくれたように。

「愛しているよ、トゥーラ。今までも……これからもずっと」

 彼の両腕がエリオを抱いたトゥーラを温かく包み込む。長い間焦がれていた愛する者と共に在る幸せを、彼女は苦難を乗り越えてついに手に入れることを許された。いつか息子と離れねばならない巣立ちの時が来た後でも、こうして家族が一緒に過ごした思い出は決して消えない。

「マノエル、私もあなたを愛しています……どんな時も」

 優しく重ねられた唇はどこか涙に似た味がした。だが幸福の涙とは甘く、繰り返される口づけは何よりも雄弁に想いを語る。
 生ある者は皆こうして永遠とわに渡り命を繋いできた。深い愛で結びつき、子を産み育て、そしてその子が再び外の世界で愛を見出す。そうして絆は結ばれ、時を超えて紡がれてきたのだろう。その大いなる生命の輪の中に自分も溶け込んだことを、トゥーラは自分の家庭を持つことでやっと気づくことができた。この世界の全てを彩るあらゆる形の命の中に、その営みを繋ぐ者として自身の居場所を見つけたのだ。
 それに気づかせてくれたのは今こうして温もりを分かち合い、違う種族の垣根さえも乗り越えてくれたマノエルの想い。

「トゥーラ、幸せになろう。昨日よりも、今日よりも、もっと」

 終わりのない幸福を約束してくれる彼からの言葉に、トゥーラは涙の滲む目を拭い微笑むと強く頷いた。