埃っぽい風が気持ちばかりの下生えの草を揺らす中、栗色の髪をした女は台地に伏せて眼下を伺う。その窪地は丈の高い夏草のおかげで人目にもつかず、ならず者たちが身を隠すには最高の理想的な場所だ。岩陰に無造作に放られたいくつもの麻や革の袋、焚き火の跡にかけられたままの鍋の大きさから見る限り、ここが悪党たちの根城となっていることは自然と知れた。それも昨日今日というような短い期間の話ではない。この場を通る荷馬車は目的地に到達すること叶わず、通報を受けた憲兵隊すら生きて戻らなかったという。
 だが今その地に見える人影は予想外に2つしかない――1つは長銃を肩に構えて眼帯をした男のもの、もう1つは馬を繋ぐ杭に手を縛られた男のそれだ。自由を奪われた者が纏う服は地を引きずられて破け、そこから覗く肌のみならず口元にも乾いた血が見える。狩る者と狩られる者の如くその立場ははっきりしていて、それを覆すことなどもはや何人たりともできないだろう。
 しかし助かる見込みなどないこの絶望的な状況でも、縛り付けられた男の鋭い眼光は衰えはしない。それは運命を諦めた無気力から来る反発ではなく、いかなる時にも誇りを捨てない者の気高い光だった。

「さあて……もう遊びも終わりだ。ブラッドリー、お前のしけた面は楽しませてもらったぜ」

 こちらの気配を感じることは不可能なほど離れていても、蔑むような声は高台に身を潜めた女にも届く。だが凍りつくような恐怖に思わず両手を握りしめながらも、鳶色の若い眸は決してそれから目を背けなかった。眼帯をした砂色の髪の男はおもむろに歩を進め、手にしたライフルの先で屈しない相手の顔を上げさせる。

「最初から余計なことに首を突っ込まなけりゃよかったのによ。俺の女に関わっちまったことがお前の運の尽きだな」

 聞こえた言葉から女は否が応でも不快さを覚えた。それは今から3年前、彼女が初めてその男――アラステア・バロウズに出会ってしまった時から感じていた、何かとても邪悪なものの片鱗と言ってもよかっただろう。

「お前の女……シャンティがか?」

 さりとてブラッドリーと呼ばれた男は杭に縛られつつも、黒曜石のような黒い目をゆっくりともう1人に向けた。そしておかしくてたまらないといった口調でそう言った彼は、しばしの間を置いた後で挑むような真摯な声で続ける。

「違うな、あいつは生涯お前のものになんてなりやしないさ。例え今ここで俺が死んでもそれが変わることはあり得ない」
「――ッ!」

 アラステアの灰色の眸に怒りが燃え上がると同時に、それを聞いていたシャンティの胸は狂おしい歓喜に震えた。彼女の名はこの声で紬ぎ出されるためにこそ存在する。生涯で唯一全てを許し深く愛したその男の、忘れることなどできない掠れた低い声で呼ばれるために。

「……お客様ですか?」

 それは遡ること4ヶ月、そろそろ春も終わり長い夏が始まろうという頃のこと。拓けた空に気の早い星が輝き始めた夕暮れ時、シャンティは開いた扉の向こうに立つ男にそう尋ねた。まだ固く巻いたストローハットに首にはえんじのネッカチーフ、使い込まれたジャケットとブーツは傍目にも実になめらかだ。同じ革だろうガンベルトには細身の銃が下げられており、腰から下を覆うチャップスは馬乗りという証でもある。陽に焼けた彫りの深い顔立ちはどこか先住民にも似て、男がこの辺りの者でないことは彼女もすぐにわかった。
 昔は旅の途中の者を泊める機会も多かったのだが、各地を繋ぐ宿場町が作られるようになってもう久しい。今ではそこから外れたこの地を敢えて通る者などおらず、まして台所の勝手口を叩かれると誰が思うだろう。古馴染みの来客ですら表口を使う土地柄故に、失礼なほどの驚きが娘の鳶色の眸をよぎる。
 だがその男がまさにこの裏口に通されたということは、彼が既に門番の目に適ったという印に他ならない。さもなくばメイフィールド牧場の柵を越えることは叶わず、力ずくで押し入る輩ならば戸を叩くこともないはずだ。残念ながら牧場の者は皆それをよく心得ており、だからこそ彼女も警戒せずに扉を開けられたのだろう。

「ああ……と言いたいところだが、頼みたいのは俺じゃなくこいつの寝床でね」
「?」

 帽子を目深に被った男は眸を細めてそう言うと、顎先で指し示すように自身の斜め後ろを振り返る。不思議と心地よい声に促されて身を乗り出した娘は、彼の視線の先に気づくや否や鳶色の目を見開いた。

「門のところにいた奴と同じ顔をお前さんもするんだな。よほどこいつを高く買ってくれてると見える、ありがたいが」

 からかい混じりのその声にろくな返事1つもできないまま、彼女は輝くような黒鹿毛の牡馬に思わず見惚れていた。荒野を駆け回らせるために神が地に降ろした創造物、そんな言葉さえ浮かぶ生き物は野生の馬がそうであるように目立って秀でた体躯を持ち、持ち主の如く黒い静謐な目で彼女を見返している。
 こんな馬で走ることができたらどんなにか素晴らしいだろう。風を切り、太陽の光を背に緑の草いきれの中、馬の背から眺める世界はまるで違うものに見えるはずだ。地の果てまでも駆けていけそうな馬と旅人を見送る度、どんな思いが胸を満たしたのか娘は今も覚えている。まだ幼かった彼女は内心の憧れを隠しもせずに、その後ろについて広い世界を見に出ることを夢見ていた。そんな願いはとても叶えられるものでないと知っていながら、地平線の彼方に消えゆく彼らの背を見つめていたものだ……時間の限り、いつまでも。

「あっちにいた男が裏口のお前さんに聞けと言ったんだ。だが無理ならそれでも構わんよ、断られるのは慣れてるんでね」
「あ……っいえ、お断りするだなんて、そんな!」

 黙って馬に魅入っていた娘は慌てて首を横に振る。あの頃旅人をもてなすのは母のサリーの役目だったが、今は彼女の他にそれを務められる者はいないのだから。

「お恥ずかしい話ですが、馬房も部屋も余っているんです。こんな牧場でよければぜひお休みになっていってください」

 残った人数のことを思えばこの母屋さえ大きすぎる。一晩を過ごすまでもなく窮状は相手に知れるだろうが、この期に及んで今更それを取り繕っても仕方がない。娘にできることは少しでも寝室を心地よく整え、長旅の疲れを癒してもらえるよう心を砕くだけだ。そう遠からぬ日に荒野の一部と変わる定めのこの場所を、せめていい思い出としてその心に留めてもらえるように。

「すまんな、恩に着るよ」
「いいえ、まずは馬を休ませてあげてください。どうぞこちらへ」

 戸口の布巾で手を拭いた娘は自ずから畦道に降り、夕陽が美しく染める西の方角を細い指で示す。男は頷くと馬の轡を取り彼女の後に続いた。そしてしばらく2人が無言で厩舎への道を歩いた後、ふと思い出したように彼は前を進む娘を呼び止める。荒野を渡る風のような、低くも温かみのある声で。

「そういえば名乗ってなかったな。俺はレオン・ブラッドリーだ」
「こちらこそ失礼しました。シャンティ・メイフィールドと申します」
「……メイフィールド?」

 足を止めて振り向いたシャンティが名乗った名を繰り返しつつ、レオンは訝しげな表情を浮かべてつと片眉を上げる。しかし彼が牧場の看板の名を思い出すよりも先に、どこか寂しげに微笑んだシャンティは自身の立場を告げた。

「はい、私がこのメイフィールド牧場の牧場主です」