「お前さんが……本当に?」

 一瞬目を丸くして呆気にとられた表情を見せた後、レオンは俄かには信じ難いと言わんばかりにそう尋ねる。だがその声色に相手を見下す響きなどは感じられず、例えシャンティが男でも彼は同じくそう言っていただろう。牧場主の肩書きを持つには若すぎるということにのみ、レオンが言及していることを彼女はちゃんと理解していた。

「この格好では信じてもらえないかもしれませんが」

 踝まで隠さんばかりのエプロンドレスの裾を持ち上げて、シャンティは自嘲気味な笑みを浮かべると問いに答えを返す。色褪せて擦り切れた部分に継ぎを当てられたその服装は、流行に敏い歳頃の娘がするようなものとは言えない。

「さあ、厩舎はすぐそこです。暗くなる前に行きましょう」

 再び前を歩き始めたシャンティの後方を行きながら、レオンは視界の隅にちらりと黒く焦げた鶏舎を認める。身1つで愛馬と共に窮地を幾度も潜り抜けた彼は、持ち前の観察眼を働かせしばし思いを巡らせた。広い土地を持っている割には動物の気配も多くなく、今は使われていないのだろう施設も見受けられるとはいえ、まだ20をいくつか過ぎたばかりのようにも思える彼女が、牧場主という立場にあるのは何か理由があるのだろう。それを問えば恐らくシャンティは答えを返してくるだろうが、積極的に言うつもりがないことはもはやはっきりしている。そしてレオン自身がただの流れ者に過ぎないという以上、余計なことに口を挟み気を悪くさせるつもりもなかった。
 しかし燃えた小屋は元より、牧場の柵が綻び1つないほど修理してあったこと、また門番の表情が単なる来訪者に対する以上の警戒を色濃く帯びていたことが、遠く先住民の血を引くレオンの勘に引っかかっている。十中八九牧場は厄介事を抱えているのだろう。だがそれは彼自身とはもちろん何の関係もないことで、より突き詰めれば明日の朝まで過ごせれば自分は構わない。その後にシャンティやこの牧場が見舞われるであろうことなど、一介の宿無し草たるレオンには知る由もないのだから。

「クライヴ――クライヴ?」
「どうしたってんだ、シャンティ」

 年季の入った厩舎の入り口から彼女が声をかければ、若い男が裏手から井戸水のバケツを持って現れる。しかし赤い髪を括った彼が向けていた優しい視線は、レオンの姿を認めた瞬間敵意あるそれへと変わった。

「誰だ? そいつ」

 落とされた声は怒れる獣の唸りにも似て酷く低い。それは黒髪の男が招かれざる客だと示していたが、彼が何か言うよりも早く声を上げたのは牧場主だ。

「クライヴ、あなた失礼でしょう? お客様に何てことを言うの」
「シャンティ……お前だって今がどういう時かわかってるんだろ? 知らない奴を誰彼構わずうちの敷地に入れたりするな。ゴードンなら問答無用でそいつを叩き出してるところだ」

 クライヴはシャンティと客の前を素通りしながらそう言うと、干し草が積み上げられた一角で作業を始めようとする。だが娘は無言のまま赤髪の男の行く手を塞ぐと、頭1つ分背の高い彼をきっと見上げ静かに言った。

「なら今日の見張り番がテディなことを感謝するしかないわね。お客様と言ったでしょう? この人の馬のお世話をしてあげて」
「……!」

 クライヴは明らかに歳下の娘にぐっと口を噤むが、罵詈雑言は元より不平の1つも言い返すことはない。それにレオンは驚きに近いある種の感銘さえ感じる……血気盛んな歳頃の男を命令に従わせるなど、気性の荒い馬を見事に乗りこなすくらい難しいのだ。もしそれを女の身でこうも容易に成し遂げられるとしたら、男の側が女に恋情でも抱いているに違いない。

「構わんよ、こいつは俺にしか懐かん可愛げのない馬だ。場所と道具さえ借りられれば後は自分でどうにでもできる、わざわざそこの若いのの手を借りるほどの大仕事じゃないさ。誰だってこいつの蹴りを甘んじて食らうのは本意じゃあるまい?」

 緊迫した空気を敢えて無視した旅人が声をかけると、娘は慌てて振り向きそんなつもりではないと弁解する。その表情はクライヴと対峙した今しがたとまるで違い、どこか頼りなささえ感じるような歳相応のそれだった。

「違うんです、ミスター・ブラッドリー。不愉快な思いをさせてしまってごめんなさい、私はただ――」
「わかったシャンティ、もう十分だ。俺がこいつとそっちにいるでかい馬の世話をすりゃいいんだろ」

 狼狽えるシャンティの声を聞くのが耐えられないと言うように、乾いた赤毛をぐしゃぐしゃとかき回しながら青年が言った。

「でもよ、確かにその馬の後ろ蹴りを食いたくもねえんでな。見ず知らずの相手に任せるには立派な馬なのも確かだ。必要なものは全部用意するが、手入れはあんたに頼む。それでいいだろ?」

 牧童はそうまくしたてるとその褐色の目をレオンに向け、案内するからついてこいと言葉で言わず顎先で示す。それは大概客に対しては無作法すぎる態度だろうが、畏まった場は性に合わない流れ者には心地良かった。クライヴにとってこれが彼なりの譲歩の結果であることも、レオンには手に取るように容易く見抜くことができたのだから。

「クライヴ……クライヴ! もう!」
「いいさ、お前さんも気にするな」

 クライヴはさっさと馬の水桶にバケツの水を空け始め、そんな彼の後ろ姿を咎めんとシャンティが呼びかけるが、旅人はそんな彼女の肩を軽く叩きその目を細める。

「さっきも言っただろ、こちとら断られるのは慣れてるんだ。ここまでしてくれる牧場は10のうち1つもないだろうさ。それに知らない奴を警戒するのは何も悪いことじゃない。特に今のこのご時世じゃ気をつけすぎてちょうどいいくらいだ」
「ミスター・ブラッドリー……」
「あの若いのもお前さんが心配だからああ言ってるんだろ? そう怒ってやるな、俺のことなら何も気にしちゃいないさ」

 悲しげな顔をしたシャンティは何かを告げようとしたものの、薄紅の唇は引き結ばれ続きを紡ぐことはない。諭すようなレオンの言葉に戸惑いつつ頷いた彼女は、自身の無力を感じずにはいられないのだろう声で言った。

「でももしまたクライヴが失礼なことをしたら教えてください。私ももう22歳です。牧場主としての責任を果たすには若すぎませんから」

 夕暮れの中を去っていく娘はすらりと華奢な体格で、とても人里離れた荒野の牧場主などには見えない。レオンはしばらくシャンティの黒い影の形を眺めた後、愛馬マースローの轡を引いて厩舎へと足を踏み入れる。

“……22、か”

 その生い立ちに興味がないと言えばそれは嘘になるだろうし、優しさと気の強さが同居する眸は目を惹きつけもした。しかしレオンは気まぐれに若い娘に手を出したりはしない。そんな駆け引きに心躍った時代はとうに過ぎ去った今、その心を捕らえて止まないのはこの果てのない荒野だけだ。どこまでも続く大地を愛馬と共に好きなだけ駆けていく、それ以上に血が沸き立つものなど他には奇しくも見つからない。
 もしもそれに勝るものを彼が見つけることができていたなら、レオンとて1つの場所に身を落ち着ける人生もあっただろう。だが初めてロデオで優勝し金を得た15歳の日から、この大自然以上に心を掴むものには巡り会えない。ましてやそれから30年の月日が過ぎた今となっては、そういったものが存在するかもしれないという考えすら、男の頭をよぎらなくなってもう長い時が経っていた。