「クライヴ、あなたも町のお医者様のところで診てもらわないと」

 ゴードンの姿を見るやテッドは荒縄を手に走っていき、シャンティは我に返るとクライヴの傷の手当てに取りかかる。しかし包帯を巻くその手つきは動揺のせいか覚束ず、無駄に時間がかかるばかりでなかなか上手く処置を終えられない。脅しには深い怪我は致命傷には浅すぎるものだったが、いずれにせよこの牧場で施せる治療には限りがある。後遺症を残したくなければ医者に診せねばならないだろう。

“ミスター・ブラッドリー……”

 牧童頭が安否について一言も触れぬということは、アラステアに銃を向けられてなおレオンは無事だということだ。それが頭ではわかっていても心臓は全く鎮まらず、早鐘を打ち鳴らし続けておりまるで収まる気配がない。手負いの青年でさえ彼女の狼狽ぶりに苦笑しており、いつものように振る舞おうとすればするほどそれとは遠くなる。シャンティはそんな自分自身を酷く情けないとは思うが、悪夢の終わりをすぐさま信じることはやはり難しかった。
 最初に厩舎へ向かった2人の暴漢がそうされたように、アラステアたち3人もまた縛り上げて納屋へと移される。彼らは馬車の準備が済み次第保安官の元へ送られ、法の唱える正義の下に牢獄へと収監されるだろう。これでもう2度とその影に怯えず暮らすことができるはずだ。
 だが全てが元通りに一件落着というわけではない。襲撃によってもたらされた計り知れない甚大な被害、そして膨らんだ負債は決して消えることなどないのだから。

「シャンティ……」
「どうしたの?」

 手当の最中呼ばれた声に彼女がやおら顔を上げると、クライヴは訝しげな表情でじっと厩舎を見つめていた。娘もつられてそちらを見やれば黒い髪の男が1人、同じ色合いの大きな馬の手綱を引いて外に出てくる。

「あいつ……行っちまうつもりか」

 怪我人は信じ難いと言わんばかりに呆然と呟くが、それを最後まで聞かずにシャンティはすぐに母屋を飛び出した。

「ミスター・ブラッドリー!」

 鞍を留める腹帯を締めていた男はしばしその手を止め、息を切らせて走ってくる女牧場主に顔を向ける。彼女は命の恩人の前で口を開こうとしたものの、感謝も謝罪も全ては胸に詰まりうまく言葉にならない。

「宿代くらいにはなったかい」

 しかしそんなシャンティの考えなど見通しているかのように、多少灰色の混じった黒髪をかき上げてレオンは言った。今や高く昇った太陽が彼の目元へと影を落とし、それは彫りの深い顔立ちに更なる男らしさを与える。

「お前さんの飯はうまかった。礼代わりになればいいがな」
「そんな! 私、あなたをこんな危険な目に――そんなつもりじゃ」
「俺はこうして生きてるんだ、別に何の問題もない」
「ま……っ、待ってください!」

 ひらりと馬の背に跨ったレオンへと娘は追い縋った。何も伝えられないまま別れてしまうことなどできはしない。さりとてどんな言葉もこの胸の思いを表すには足りず、結局声になったのは使い古された決まり文句だけだ。

「本当にありがとうございます。このご恩はずっと忘れません……ミスター・ブラッドリー」

 どんなに長く留まった旅人がここを後にする時でも、母サリーは寂しさを気取らせぬよう笑顔を絶やさなかった。だからこそ自らもそうでありたいと願っていたはずなのに、自然とあふれてきてしまう涙をシャンティは苦しく思う。
 彼はこのまま行ってしまい、もう2度とめぐり逢うこともない。彼女とてそれが荒野を流離う者の常と知っているのに、こうして去ろうとしているレオンを引き留めたいのはなぜだろう? シャンティ自身も遥かな土地への旅立ちを目前に控え、もはやこの場所へ帰ってこられる望みなどないからだろうか……危険の尽きないその道中、もし彼が傍にいてくれたらと儚い夢を見てしまうのは。

「いや、礼なんぞ構わんさ。俺のことなんて忘れちまいな」
「――おい、あんた」
「!」

 黒い眸の旅人がそう言って門へ向かおうとした時、背後から突然聞こえた声に娘は驚き振り向いた。青々しく茂った牧草のそよぎに足音を消したまま、2人の傍にはいつしか負傷したクライヴが佇んでいる。

「クライヴ、あなた何してるの!? 早くベッドで横になって――」
「ブラッドリーって言ったよな、あんたに折り入って話がある」

 上半身裸のまま痛々しい肩に白い布を巻き、若いカウボーイは血の気の失せた顔でレオンの目を見上げた。

「……俺からも礼を言う。シャンティを護ってくれたことに」

 この状態では話すことさえ激痛なしでは無理だろうに、2人の耳にもはっきりと響く彼の声には澱みがない。しかしその表情は言葉とは釣り合わぬほど苦渋に満ちて、本当の思いが別にあると心ならずも示してしまう。

「そんなことは気にするな、だが次はお前さんが護ってやれ。自分の女くらい自分でどうにかしてこその男だろう?」
「……!」

 流離い人は敢えてクライヴの傷と思しき部分に触れた。3人の牧童は誰もがアラステア・バロウズを打ち倒し、シャンティが再び幸福に生きることを願っていたのだろう。中でも最も強くそれを望みまた近い場所にいたのは、炎のような赤い髪も鮮やかなこの男だったはずだ。出会った時から敵対心丸出しのその態度を見ずとも、彼が見つめる先にはいつも栗色の髪があったのだから。
 だがそんなやりとりに思わず目を丸くする彼女の隣で、クライヴはふと遠くを見るように目を細め皮肉げに告げる。

「妹分に手を出そうなんて思ういかれた兄貴がいるか? 話ってのはそのことじゃない。だからな、ブラッドリー」
「――クライヴ!?」

 ぎょっとする娘の足元、黒毛の馬が暴れでもしたら死をも免れないその場所へ、赤髪の青年は身を投げ出し地につくほど頭を垂れた。

「おい、あんたは何をして――」
「俺たちと一緒に来てくれ」

 若さ故のプライドを捨て、何も持たないただの男として彼は必死に懇願する。相手の言葉を遮った声はそれまでのものとは異なり、後には引けない悲壮さを纏い遥かに痛切に聞こえた。顔を上げたクライヴはレオンを真っ直ぐその目に捉えながら、必要ならば追い縋らんばかりの勢いで更に続ける。

「ブラッドリー、あんたも来てくれ。俺たちはここには留まれない」
「一体何の話――」
「シャンティをどんな時も必ず護れる奴が必要なんだ。さっきのではっきりわかった、俺たちの旅にはあんたが要る」

 慌てて膝をついたシャンティが必死に止めようとするものの、兄とも呼ばれて育った男は彼女の方を向きもしない。馬上の旅人は冗談と一蹴できぬ雰囲気を察し、沈黙の後で小さなため息をつくと唇を開いた。

「ずいぶん勝手に言ってくれるな。だがそんなに大事なお姫さんなら危ない目に遭わせてやるなよ。そうしなきゃならん事情があるなら死ぬ気で護ればいいだろう、そもそもお前さんの立場なら――」
「できるならあんたに頼むもんか!!」

 抑えきれない感情の爆発と共に本音が吐露される。その悲痛な叫びはレオンをして言葉を継ぐことを許さず、悔しさに涙さえ零す男をただ見つめさせるばかりだ。

「俺の腕前じゃ無理なんだ。俺じゃ……俺の力じゃこいつを最後まで護ってやれねえ。できないんだよ、俺には!」

 護ると誓った女の前でそんなことを告白するのは、男に生まれた者にとって死よりもなお一層恥だろう。しかしクライヴは血の滲む肩口の包帯を押さえつつも、相手の首を縦に振らせるまでその場を動こうとはしない。

「頼む、俺たちと来てくれ――南のフォートヴィルの街まで」