南部に位置するフォートヴィル、それは小さな村の少年すら知っている夢の街の名だ。そこの寂れた集落で金の鉱脈が偶然見つかった、そんな噂が出始めたのは今から半年ほど前になる。真偽も知れぬ風説だが、それ以来一攫千金を夢見て故郷を後にしたまま、長く過酷な旅に出て帰らぬ者は枚挙に暇がない。話題が話題を呼び、かつての寒村は今や大陸中から人の集まる街になった。だが急激な発展は食糧にも事欠く事態を招き、中でも肉が足りないという話は折に触れ聞こえていた――相場の10倍以上の値でも売れるという風聞と共に。
 シャンティが牧場を閉鎖するという決断を下したのは、伝え聞くそんな噂の存在がその背中を押したからだ。土地を抵当に入れただけではとても返しきれない借金、それを期限までに何とか返済するつもりがあるのならば、何年もゆっくりと牧畜を営んでいる余裕などない。生まれ育った我が家を失い人手に渡すのは辛くとも、慣れ親しんだ場所で父を看取れたことに満足すべきだろう。フォートヴィルで本当に牛が破格の値段で売れたところで、負債を返せば牧場を買い戻す金など残りはしない。それでも次の生き方を選ぶまでの足し程度は手に入る。吉と出るか凶と出るか全くわからぬ賭けめいた旅でも、もはや後のない彼女たちが他に選べる道などないのだ。

「……正気か? 物見遊山と洒落込める道じゃない、女連れでなんて馬鹿げてるぜ。どうしても行きたいってんならお姫さんはどこかに置いていけ」
「いや、シャンティは連れて行く。ライアンの――こいつの親父の遺言でもあるんだからな」

 レオンは片眉を上げたが、クライヴは負けずに食い下がった。不屈の青年の脳裏にはあたかも昨日のことかのように、1ヶ月前の夜にライアンと交わした会話が蘇る。

「……俺はもう長くない。お前たちには世話になったな」
「ライアン、やめてくれよ。あんたにそんな弱気は似合わねえぜ」

 シャンティの父は1代で荒野を切り拓いた開拓者だ。そして死の床にあってなお、悪魔のような男に目をつけられてしまった若い娘と、膨大な借金を抱えた牧場のその後を憂いていた。しかし彼が世を去る前日に見せた久方ぶりの笑顔を、クライヴはきっとこれから先も忘れることなどできないだろう。その晩ライアンに呼び集められた3人の牧童たちは、敬愛する牧場主の言葉を固唾を飲んで聞いていた。

「いや……もう長い間サリーの飯を食ってなかったしな。シャンティの腕も上がったが、やっぱり女房が1番でね。あいつも先に逝っちまってそろそろ待ちくたびれた頃だろう、いい加減行ってやらなきゃ俺の方が愛想を尽かされちまう」

 快活だった声が弱々しい病人のそれに変わっても、ライアン・メイフィールドという男の魅力はまるで衰えない。何もかもを受け止めてくれる懐の広さを持った彼に、孤児だった若者は名も知らぬ父の姿を垣間見ていた。1人前のカウボーイとして認められる歳になった頃、息子と呼んでくれたライアンに思わず涙したこともある。

「……シャンティはフォートヴィルへキャトルドライブに出たいそうだ」

 黙りこくる牧童たちに語りかけるようにそう言いながら、牧場主は青白い顔で心底嬉しそうに笑った。

「ここを離れたら生きていけないような顔をしていたくせにな。あいつもようやく本当に大事なものが何かわかったんだ……大人になったってことだな、あんなに小さかったシャンティも」

 父からのその言葉を彼女がどれほど切望していたのか、誰よりも長く傍で過ごしたクライヴがわからぬはずもない。牧場に引き取られた時の彼は娘より6歳上で、後ろをついて歩くのが好きなシャンティの子守りを任された。2人で他愛ない悪戯を企てればライアンに叱られ、サリーの胸に片腕ずつ抱きしめられる幸福を分け合い、血の繋がりなどなくても兄妹同然に育てられたのだ。
 母を亡くしたシャンティが代わりを努めようとしていたことも、父から認められたいと願っていたことも全て知っている。アラステアのような悪漢に恐ろしい目に遭わされながらも、実家を救いたいが故に努力する姿もずっと見てきた。だからこそ彼女が牧場を閉めるという決意を固めても、それはクライヴにとって決して驚くべきことではなかった。大切なのはシャンティが両親から受け継いだ心なのだ。それは生まれ育った地を離れても消えるようなものではない。
 この場所こそが彼女の未来を閉ざす足枷になるのならば、再び自由を得るためにいっそ手離してしまうべきなのだ。もちろん牧童たちにとって望まない結論ではあったが、それが何よりも賢明な選択であることもわかっていた。

「今夜お前たちにここに来てもらった理由もそこにあるんだ。俺の最後の我儘だと思って頼みを聞いてくれないか」

 静まり返った部屋には咳き込むライアンの声だけが響く。

「娘を連れていってやってくれ。バロウズめが追って来られんほど遠くへ逃がしてやってほしい。それにシャンティは小さい頃から荒野ばっかり見てただろう。1度くらい好き放題駆けさせてやりたいとは思ってたが、俺にはもうそんな時間がない……」

 背負った重荷を降ろし、失われた自由を取り戻す旅。とは言えその道中は男でも尻込みする道なき道だ。野生の獣や強盗に襲われ命を落とすこともある。今でこそ縄をかけられ悪巧みの叶わぬ身ではあっても、何よりアラステアが黙ってそれを見ていたはずもないだろう。
 だが父とも慕う相手の最期の頼みを断ることなど、実の息子のように育てられた青年にできるはずがない……。

「ゴードン、テッド、クライヴ……あいつを護ってやってくれ。他でもないお前たちになら安心して後を任せられる。その先はシャンティだって自分独りで何とかやっていくさ、あいつは間違いなくサリーと俺の血を継いだ娘だからな」

 どんな敵が現れても命の限りシャンティを護り抜く、ライアンの今際の際に赤毛の若者はそう約束した。しかしそうすべき時が来ても自分は彼女を護れなかった、その圧倒的な無力を恥じずに生きることなど不可能だ。だがクライヴは諦めない――そのプライドを捨て去って地面に頭を擦りつけようとも、シャンティを無事にフォートヴィルまで送り届ける使命のために。

「悪いが俺には関係ない、指図されるのも好きじゃないしな」

 レオンは素っ気ない口調で淡々と懇願を拒絶すると、今度こそ牧場を後にするために馬を荒野へと向けた。しかし青年は制止も聞かずにマースローの前へ飛び出し、稀有な射撃の腕を持つ男をなりふり構わず引き留める。

「頼む、あんたが必要なんだ――どんな条件だろうと飲む!」

 何が待ち受けているかもわからぬ長旅に不安は尽きない。メイフィールド牧場の一行はこの地を離れたことがなく、必然的に不慣れな生活を営まねばならないだろう。その点レオンはこれまでにもあちこちの地方を巡っており、用心棒としてのみならず旅をする上でも頼りになる。クライヴはそんな相手を必死に説き伏せんと立ち塞がるが、馬上の男は半ば蔑みを込めた視線を彼に送り、冷酷にも聞こえるような低い声ではっきりとこう言った。

「なら金を払ってもらおうか。まさかただで来いとは言わんだろう?」

 クライヴの背を汗が伝う。当然そのくらいの要求は彼も想像がついていたし、手持ちの全てを渡してもレオンを雇えるなら安いものだ。だが――。

「先払いしろとは言わんさ。だが牛の売り値の3分の1をそっくり俺に渡してもらう、そいつが俺を雇う条件だ」