傷ついた心にその言葉は何と優しく響くのだろう。涙を堪えているのに彼を見つめ返さずにはいられない。真心と偽りの親切心を見抜ける者はここにいる。シャンティが今は亡き両親から継いだ思いを貫こうと、心を込めて旅人と接したことは無駄ではなかったのだ。
「旅に出てから最初の町の宿がこんなだとはついてないが、これから先は同じようなことも吐いて捨てるほどあるだろう。世の中善人ばかりじゃない。他人を1人も信用するなとまでは言うつもりもないがな、一応は気をつけたがいい。フォートヴィルから先、あんたが自分の道を生きる時もだ」
そしてクライヴが不機嫌そうに待っている部屋へ舞い戻ると、レオンは椅子の背にかけられたままのジャケットを示して告げる。
「これから出てくる飯を食ったらさっさと荷物をまとめようぜ。金は先払いしてるんだ、芝居に付き合う義理もないしな」
それからしばらく経った後、鷹揚な態度の女主人は5人を食卓に招いた。量こそ多いが料理の味はあまり褒められたものではなく、並べられた酒もまた申し訳程度に冷やされてもいない。それらを満遍なく口に詰め込むことは苦痛ではあったが、全く手をつけないのも女将から余計な疑いを招く。幸い薬やその類のものは使われていなかったため、一行は多少の飲み食いを済ませるとそれぞれ席を立った。
『あんたは何も間違っちゃいない』
灯りを消した部屋の中で娘はその言葉を反芻する。だが女将の強引な客引きも断ることはできたはずだ。自分の心の弱さが仲間たちを危険に晒してしまう、それを2度と忘れないようにもっと自覚しなければならない。甘えや油断は許されない――これからもこうして5人揃って旅を続けていたいならば。
「おい小娘、準備はいいか?」
音を立てずに開けられた扉の向こうからゴードンが尋ね、小さく頷いたシャンティはすぐに荷物を腰に巻きつける。そして雲間から細い月が照らし出す窓辺の前に立つと、やって来た他の4人と共に錆びついた掛け金を外した。
「……ああ、いたいた。夜中だからか大人しいもんだねえ、これだけ牛がいりゃあ30はいただけそうなのに勿体無い」
「牛も疲れてるんだろうよ。久々に牛舎の中でゆっくり寝られるなら喜ぶかもね」
安宿の女主人、もとい牛泥棒とその協力者は真夜中に行動を開始する。町外れから続く牧草地はかつての牧場の名残で、今はそんなところを開墾する者もいなくなって久しい。若い働き手が去って行った町には老人だけが残り、時折訪れるのも無軌道な旅人たちばかりとなれば、保安官が常駐しない田舎町の中で起こる悪事は、法の下に裁かれることもなく黙殺されていくばかりだ。
牛泥棒は縛り首で償う罪の事実は忘れられ、町の者でない部外者の所有物を盗むという行為は、生活上やむを得ないものとして容認さえされつつある。久方ぶりの上等な牛肉に目が眩んだ2人組は、心弾ませたままメイフィールド牧場の牛へと近づき、焼印など目に入らぬ様子で家畜を連れて行こうとした。
「じゃあ早速あんたはそっち側の――」
「さて、ろくでもない奴らの牛に何か用でもあるのかい?」
「!?」
その瞬間ほのかな燐の臭いを立ててマッチの火を灯し、手にしたランタンをつと掲げたのは黒髪の用心棒だ。彼の隣にはまだ若い女牧場主が控えていて、慌てふためく女将の表情をじっと黙って見つめている。
「あんたたち、どうしてここに」
「ご存知の通りカウボーイ仕事にはロープが必需品でな、2階の窓からこいつを使って抜け出すくらいは簡単だ。ついでにあんな薄めた酒じゃとても眠くなんかなりはせんよ」
手にしたままのマッチを土の上に落としブーツで踏み消すと、先住民めいた顔立ちの男は冷たい声で続けた。
「今は物騒な世の中だ、みんな余所者を警戒するさ。だが俺たちだって誰も彼もを無条件に信用しない。旅人を食い物にする輩も存外少なくないんでね」
「な――」
「牛泥棒は私刑も正当化されてるくらいの大罪だ、あんたらを無傷で見逃してやるってのをありがたく思いな。これに懲りて流れ者の荷物をいただこうとはしないこった、こんな杜撰なやり方をしてりゃ近いうちに命を失くすぜ」
いつしか馬に乗った他の3人の影もがその場に揺れる。こうなれば例え暴れたところで牛泥棒に勝ち目はなく、女主人は憎々しげに顔を歪めて娘を睨んだ。
「こんな風にお別れしなければならないのはとても残念です。どんな意図があったとしても、町中で声をかけてくださったことには感謝していたのに」
そんな相手にもシャンティはあくまでも丁寧に話しかける。言いたいことなら尽きないが、もし口汚く罵れば同じ場所まで堕ちてしまうだろう。自分たちは町人から拒まれるようなならず者ではない、それを証明したければ態度で示さなければならなかった。しかし宿の女将は開き直り娘をきっと睨めつけると、まんまと一杯食わされたことを逆恨みしてまくしたてる。
「あたしを憐れむつもりかい? 男どもの慰み者のくせによくも言ってくれるじゃないか。あんたみたいなあばずれを泊めてくれる宿なんてありゃしないよ。ベッドの上で眠りたきゃそんな色気のない服なんか脱いで、部屋を取ってる男の身体でも温めに行ってやるんだね!」
「……!」
その言葉とていつか口に出されるだろうと覚悟はしていた。この時代、女だてらに馬を駆り長期の旅をするなど、娼婦か旅芸人でもなければとても許されぬことなのだ。家族ぐるみの入植者でこそ馬に乗ったりもするだろうが、悪党か彼らの囲われ者の方がまだ確率が高い。だからこそシャンティはそれを心の中にずっと思い描き、ライアンは自らの死に際して初めてその許可を与えた。そんな現実は彼女も否応なしに認めてはいるのだが、それは面と向かって罵倒されるような大罪なのだろうか……?
自分の存在を認める者などこの世のどこにもいないと、こうもはっきり言われれば動揺するなというのは不可能だ。これから先も折に触れそれを思い知ることになるだろうが、さりとてシャンティたちに引き返す選択肢などありはしない。裸足で逃げ帰る場所など、もはや残ってはいないのだから。
「――ってめえ、好きに言わせておけば!」
「いいのクライヴ、もう行きましょう」
「おい、シャンティ……!」
テッドが連れて来てくれた愛馬のミルキーウェイに跨ると、女牧場主はもう1度だけ牛泥棒に目を向ける。
「短い間ですがお世話になりました……どうぞお元気で」
眠っていたところを叩き起こして出発を急かしたことで、夜間の行動に慣れない牛たちの機嫌はすこぶる悪い。ゴードンたちはシャンティを気遣い言葉1つかけはしないが、彼女を傷つけた盗っ人に強い苛立ちを募らせていた。当のシャンティは自分の失態だと自覚しているからこそ、自身を恥じるあまりに俯いてぎゅっと唇を噛み締める。
「……直に月が陰る」
その声に彼女が顔を上げればいつしかレオンがそこにいた。こちらを見向きもせずに呟かれた彼のそんな独り言は、涼しい夜風に乗ってすぐ傍を行くシャンティの元へ届く。
「何も我慢するこたあない……誰も何も見えちゃいないさ。あんな連中のことなんて今夜限りでもう忘れちまいな」
聞き終わるや否や厚い雲が淡い月の光を遮り、レオンは闇の中に溶けるようにすぐその場を離れていった。声を立てずに流された涙が1滴手綱の上に落ち、伏せられた長い睫毛を深い自責の雫で濡らしていく。だが次に細い月が雲を抜け空へと姿を見せた時、鳶色の双眸はただ南の方角だけを見つめていた。