抜けてきた渓谷こそ起伏はそれほど激しくもなかったが、シャンティたちが超えた山脈は高い山々が聳えていた。それを境として南北の気候は多少の変化が見られ、これまではところどころにあった灌木も姿を消している。昇り来る朝日に照らし出される草にもあまり馴染みはなく、牛たちも最初はどこか恐々と噛みしめているかのようだ。新たな地域へ足を踏み入れたことを如実に感じながら、娘は帽子のひさしを上げると愛馬の足を前へ向けた。
「ずいぶんと変わったところだな。まあ崩れてこなきゃいいんだがよ」
そう言うクライヴが見上げるのは盛り上がった大地の一部で、それぞれ高さに差はあれど幅広い円柱状をしている。ただでさえ植物に乏しい乾燥した土漠だと言うのに、その不思議な土の塊はあちこちに点在しているのだ。目に映る光景を更に奇妙なものに感じさせるそれは、レオンを除く4人にはさぞや異世界のように見えただろう。
「北の方にはない景色ね。キャシーやマディに教えてあげたらあの2人もきっとびっくり――」
そこまで口にしたシャンティは言葉の続きを紡げなかった。女学校時代の友人、いつも一緒にいた彼女たちとももはや会うことはないだろう。開拓民が遥かな土地を目指していた時代から変わらず、新たな場所を求めて旅立つ者は故郷へ戻りはしない。卒業後はそれぞれ忙しくあまり会う機会もなかったが、それでも共に過ごした少女時代の日々は尊かったのだ。
しかし出発から既に短くはない時が流れた以上、感傷に浸っている場合ではないこともよくわかっている。フォートヴィルへの旅立ちを望んだのは他ならぬ彼女であり、あるいはその選択自体がやむにやまれぬ結果だとしても、最後の決断を下したのは誰であるかを省みるなら、郷愁を催している暇など元より望めるはずもない。だからこそ決心が揺らぐようなことを考えてしまう度、シャンティは他人が想像するよりも深く自らを恥じる。希望に満ちて歩みを進める開拓者だった父のように、大きな夢を乗せた幌馬車隊の娘だった母のように、出会いと別れを繰り返してもただ前を向き続けていたい――例えこの旅の終わりに更なる苦難が待っているとしても。
「お嬢……あれ町じゃねえか?」
それからまた数日間5人が道なき道を進んだ後、女牧場主と並んで丘を行くテッドがそう呟く。シャンティが手をかざして眩しい太陽の向こうを眺めると、ぼんやりとだが確かに人工的な建物の影が見えた。既に水は尽きかけ、これ以上確実な水源を見つけられないまま進むのは難しい。目に映るそれが本当に人が生活する町だとしたら、そこには恐らく喉を潤すための井戸の1つもあるだろう。
「ビンゴだ! どうやら俺の眼鏡がいかれたわけじゃあなさそうだぜ」
そう言って喜ぶ彼の指差す先には煙がたなびくが、その色や上がる間隔からは火事とも狼煙とも思えない。食事の支度に由来するだろうそれにテッドは色めき立ち、彼から合図を受けた牛たちは最短距離を行こうとする。
しかし――。
「――気をつけろ!」
列の合間から驚くほど早く駆けつけたレオンの声に、娘はほとんど反射的にミルキーウェイの手綱を引いた。それと時を同じくして彼女からほど近い地面が崩れ、脆い砂地が流れるように台地の下へ滑り落ちていく。血の気の引いたシャンティの隣に大きな黒馬をつけると、経験で危険を予測した男は厳しい調子で告げた。
「こういう場所は足場が脆い、水場があろうと町があろうと絶対に急ごうとはするな。あんたたちみたいに牛を追って遠くまで旅に出たはいいが、全員まとめておさらばしちまった奴らも少なくないんだ」
彼女が恐る恐る台地の下を自身の目で覗き込めば、動物の骨らしきものがいくつも風化しているのが見える。緩やかに見える斜面でも、実際にはかなりの高さを錯覚してしまっていたのだろう。すぐ傍にいた牛は慌てふためいて高い声で鳴きながら、足を止めてひしめく仲間たちの列に身を割り込ませている。
「あんたを護るとは言ったが、不注意の面倒までは見切れん。悪党と撃ち合う前にお役御免になるのは真っ平だぜ」
「……!」
その警告があと少し遅ければ息絶えていたかもしれない。用心棒のおかげでまたしても救われたことを実感し、シャンティは未だ変わらぬ自身の心の甘さを思い知る。だが項垂れる娘の肩を励ますように叩いたレオンは、思わず顔を上げた彼女にどこか優しく口角を上げた。
「しゃきっとしろよ、お姫さん。何もこの斜面を下るだけが唯一の道ってわけじゃない。いかに先を急ぐ旅でも時には回り道もするもんだぜ、最後になるべく多くの牛を売りたいって気があるんならな」
手塩にかけて育てた家畜を不本意に失う事態など、それがどんな状況であれできるだけ避けたい悲しいことだ。今回こそそんな事態を間一髪で免れたとはいえ、きっとこの先も同じような危険はそこかしこにあるのだろう。地図にない場所を通ってでも南へ向かうと決めた時から、多少の犠牲を出さずには終えられぬ旅だとはわかっていた。さりとていくら損失を出そうと構わないなどとは言えない。できるだけ多くの借金を返せる資金が欲しいのならば、売れる牛の数は多ければ多いほどもちろんいいのだから。
“あんな風に大口を叩いて無理やり来てもらっているのに、私はどうして足を引っ張ることばかりしてしまうのかしら……”
不手際を咎めるだけでなく励ましも与えてくれる彼に、一体何を差し出せば十分報いることができるだろう? 例えどれだけの金銭を支払える立場にあったとしても、これでいいと思える額など見つからないのではないだろうか。レオンが傍にいてくれるという絶対的な安心感を、紙幣と引き換えにできるならいくらでも高いとは思わない。要求された時には法外とも思えたその雇い賃も、既に彼の能力を思えば安すぎるようにさえ思える。
シャンティは雇い主であり、レオンは用心棒に過ぎない。それ以下になりはしても、それ以上になることなどないだろう。だがこの1ヶ月と半ばを過ぎようというキャトルドライブで、日々目にしてきた彼の行動や言葉、また心遣いは、無事に報酬を得るためだけのお為ごかしには見えなかった。そう感じること自体が未熟さの象徴とは知っていても、レオンがさりげなく心に響く言葉を示してくれる度、若い娘は彼の内面を理解できた気がしていたのだ。
「ミスター・ブラッドリー、ご忠告どうもありがとうございます。おかげで私も助かりました」
ゴードンとクライヴに地盤の弱さを前もって伝えるため、彼女は九死に一生を得た愛馬と列の後ろへ向かう。しかし手綱を握る手は未だ色濃い恐怖に震えていて、衝撃から立ち直りきれていないことを暗に示していた。それでもシャンティはそんな姿を2人に見せはしないだろう……せっかくの町を前に、余計な心配などかけたくはない。
「すまねえ、ブラッドリー。俺があんな風にすぐお嬢の傍を離れちまわなかったら――」
「もう過ぎたことだ、気にするな。あんたたちのお姫さんは無事で牛も五体満足なんだぜ。今はこれで良しとしよう、そう急がんでも町なら逃げないさ」
「……ああ、違いねえ」
気が急ったが故に肩を落とす牧童に軽く発破をかけ、用心棒は手分けして足止め中の牛を導いていく。そして夕陽が幻想的なほどに辺りを紅く染める頃、5人はついに久方ぶりの人里へ辿り着いたのだった。