幌馬車隊1の踊り手だった母仕込みの娘の腕は、こちらもまた相手を1段引き上げる名手の男をして、何の苦もなくダンスの時間を楽しませてくれるものだった。彼女の鳶色の眸にはレオンだけが映し出されていて、それが彼の魂の深いところをこよなく満足させる。しっかりと繋がれた手と手、近づいてはまた離れる身体。音楽が途切れているしばしの間でさえ酷くもどかしく、シャンティから視線を外すことなどもうとてもできそうにない。
 この短い時間の間にも目まぐるしい変化が訪れ、レオンの心の中にも新たな何かがもたらされつつある。一瞬とはいえその胸を確かに掠めていったあの想い、それが何を意味するのかなど改めて考えるまでもない。伊達に40年以上の時を生きてきたわけではないのだ、似た感情などこれまでにそれこそいくらでも経験がある。しかし彼が覚えている限りの過去の記憶が確かならば、今この瞬間感じている想いと寸分違わぬものを、他の誰かに抱いたことはこれまで1度もなかったはずだ。
 “正しき星を見出した者は求むるものをその手に収め、他の者はまた同じ星が巡る時まで荒野を彷徨う”――先住民たちのおとぎ話がふとレオンの頭をよぎる。今夜はその判断が試される運命の分岐点なのだ。果たして彼女に感じた想いは未来を変え得るのだろうか? 彼が長らく探し求めていた問いの答えに迫る鍵を、娘の目の中に輝く星は指し示してくれるだろうか……?

「すみません、ミスター・ブラッドリー。少し休ませていただけますか」

 2人は何曲もの間フロアの話題の的となり続け、息を切らせた彼女がそう言うまでずっと踊り続けていた。そんな経験は久々で、彼は時計の針が瞬く間に進んでいたことに驚く。

「ああ……こっちこそすまんな、あんたがどうにも上手かったもんでつい時間を忘れちまった」

 何か飲み物でも取ってきて一息入れようとはしたものの、レオンが少しでもシャンティの傍を離れる隙があるならば、その機に乗じようとしている男たちの気配が鬱陶しい。さりとてそんな苛立ちはクライヴたちの専売特許であり、用心棒に過ぎない立場の彼のものではなかったはずだ。レオンが排除すべきは彼女に危害を加えかねぬ輩で、恋心を抱く男たちを追い払うのは仕事ではない。
 恋人でもない相手へ向けていい感情とは思えないが、彼ははっきりとこのパートナーに独占欲を感じていた。レオンが見てきた娘は擦り切れたエプロンドレスでなければ、彼自身とさほど変わらないカウボーイの服を着ていたのだ。結い上げた栗色の髪がどれほど色気を纏っているのか、日頃それを下ろした姿ばかり見ているレオンはよくわかる。長い睫毛に縁取られた眸も艶やかなその唇も、豊かな胸の膨らみも腰のくびれもすらりとした手足も、全てが人目を惹く以上に今の彼には眩く思えた。
 だがこのホールにいる者たちはシャンティの素の姿を知らず、レオンもそれを誰かに教えるつもりは毛頭ないのだから、一通り楽しんだならばこれ以上の長居は必要ない。2人は宿へ戻ると決め、ダンスホールをそっと後にした……まるで恋人とするように。

「ミスター・ブラッドリー、今日はどうもありがとうございました。こんなに楽しい気分になれたのは本当に久しぶりです」

 強引に着せられた彼のジャケットをなだらかな肩に羽織り、嬉しそうにそう言った娘の部屋はもうすぐそこまで迫る。

「そう言ってもらえると俺も誘った甲斐があったってもんだな。この大会だけはいつも時期が合わなくて出ずじまいだったが、どうやらあんたのおかげで俺も運が巡ってきた気がするよ」
「そんな……こちらこそあなたのおかげでこんな贅沢なことまで」
「俺がしたくてそうしてるだけのことだ、あんたは気にするな」
「でも――」
「あのな、お姫さん」

 2人は彼女の部屋の前で図らずも同時に足を止めた。そこから先へ立ち入る権利などレオンはもちろん持たないが、それでもその部屋の中へ足を踏み入れたいと願うのならば、閉ざされた扉と共に娘の心も開かねばならない。それは彼のような男にとっては難しくもないだろうが、かと言ってそう簡単に実行できるものでもまたなかった。

「気にしてくれるなと言っただろう? それにこの旅を続けることは俺の方にも利があるんでね」

 この歳まで何の愉しみも持たず生きることなど不可能だ。レオンは酒や賭け事のみならず女の味も知っているが、さりとてそれが恋愛を意味しないのは彼も承知していた。40余年の人生でレオンが出会った女の中には、ただ床を共にする以上に気にかけた相手もいたはずだが、その中の誰1人として彼を留めることはできなかった。荒野を馬で駆けるよりも魅力的な者にはめぐり逢えず、そんな相手がどこかにいるとももう思えなくなっていたのだ。
 ――それなのに。

「いつかあんたに話しただろう、ずっと探しているものがあると。それを見つけることができるかもしれんのさ……あんたといるとな」
「えっ?」

 つい今しがた自覚した感情はこれまでのものとは違う。しかしそれを見極めるためには絶対的に時間が足りず、またシャンティがレオンにとっては若すぎることも鑑みれば、今夜言葉巧みに先へ進もうという気にはなれなかった。彼女が純粋な心根の持ち主だと知っているからこそ、誘惑と恋愛の区別もつけさせぬまま関係を持てば、娘の心に深い傷を残す結果を招くことだろう。
 今この場でシャンティに手を伸ばしたい欲がないわけではなく、彼の中に芽生えた想いは既に仲間へのそれとは違う。だが夜は既に更けていて、親密な間柄でもなければそろそろ別れる頃合いだ。運命の夜は幕を閉じ、そしてまた新たな1日が眩しい日の出と共に始まる……。

「だからあんたは気にしなさんな、俺は俺のやりたいようにやる。それが今はあんたたちとフォートヴィルを目指すってだけのことさ。もちろん仕事は忘れんよ、そこは安心してもらっていい」
「……ミスター・ブラッドリー……」

 流浪の日々は最初から終わりを探すためにしていたものだ。この荒野を流離う以上に自分を惹きつけるものを探し、それを手にする時こそレオンの本当の人生が始まる。だからこそその鍵となる彼女と離れることはできないのだ――フォートヴィルに着くまではまだ。

「……なあ、お姫さん」

 ささやかな会話は終わった。されど彼は別れを告げず、扉を背にしたシャンティの隣に手をつき彼女を見つめる。鳶色の双眸に宿るものは驚きより不安と期待、またそれらを必死に抑え込もうとしている理性の光だ。それがレオンの望んでいるものかどうかというのは別にせよ、長旅の中で多少なりとも好意を感じてくれたならば、頬を張り倒し声を上げぬこんな反応もあり得るだろう。
 このまま頭を下げれば若い唇を奪うのは容易い。抵抗されなければそのまま激しく口づけることもできる。その首筋に自身の唇を這わせ、跡を残すことも。
 だが――。

「……!」

 乾いた唇が掠めたのはシャンティのなめらかな額だ。押し当てるようなそのキスはこれ以上ない妥協の産物で、心に秘めた欲望に必ずしも沿っているものではない。ただ何もせずに彼女を部屋へ帰すことだけはできなかった。シャンティの心に、そして他ならぬ彼自身の胸に、今夜の忘れ得ぬ思い出を深く刻んでおきたかったのだ。

「あんたも疲れたろう。今夜はその部屋でゆっくり休みな」

 そう告げた男は部屋の前に佇む娘に背を向けると、もう振り返ることもなくすぐ自分の部屋へと下がっていった。