簡素な寝衣に着替え、化粧も落としてしまったシャンティは、鏡台の前で髪を梳かしながら物思いに耽っていた。レオンと別れてからは既に半刻ほど時間が経っていて、窓から見える外の通りも今ではすっかり静かなものだ。彼とダンスホールで過ごした時間はあっという間に過ぎ去り、今や魔法は解け鏡に映るのは田舎娘でしかない。それでもこの数時間の記憶は鮮やかに心に焼きつき、目が覚めれば消えてしまう夢とは違うことを主張していた。
荒れ野を行くのに適した衣服もよく似合うレオンではあるが、体格の良さを実感させる正装もまた見事なものだ。品格はあれど硬すぎず、洒脱さを感じさせる手の抜き加減は天性のものだろう。ダンスをしていた間さえ、彼女は折に触れ何度もその雄姿に見惚れてしまっていた。そんな彼のパートナーをこの夜務められたという事実に、シャンティがどれほどの誇りを抱いたのかは語るまでもない。
彼女も間違いなく今夜のフロアの主役ではあったのだが、シャンティが気にかけていたのはもちろんレオンの反応だけで、あちこちから送られていた視線に気づく余裕などなかった。もうこんな機会は2度と訪れないとわかっていたからこそ、自分を選んでくれた男へとその全てを向けていたのだ。
『お姫さん、俺は今夜あんたに付き合ってほしいと言ったんだ。他人と踊るつもりがあるなんて考えてもらっちゃ困るぜ』
どこか不機嫌そうに眉を顰めながらそう口にした彼は、言葉通り1晩中手を離さずずっと傍にいてくれた。それが彼女にとってどんなに嬉しい出来事だったのかなど、レオンはほんの僅かですら頭によぎったこともないだろう。見つめ合うお互いの眸、離れてはまた触れ合う指先。彼にひととき身を任せ精一杯踊るのは楽しかった。その間だけは自身が置かれた不運な境遇をも忘れ、恋しい相手と過ごすという喜びに興じられたのだから。
ホールの女性たちはレオンをうっとりとしたまなざしで眺め、次にシャンティへ羨望や嫉妬を含んだ目を向けていたが、もし彼女がその立場にいたなら同じことをしていたはずだ。少しでも話ができたら、1曲でも一緒に踊れたら。そんな想いを今のシャンティは誰よりも深く理解できる。何週間もの間共に過ごしてきたからこそわかるのだ……頼り甲斐と遊び心を持ち合わせた凄腕のロデオ乗り、彼に心を奪われずにいることなどきっと誰もできない。
“……ミスター・ブラッドリー……”
レオンが扉の横に手をついて身を屈めようとした瞬間、彼女は我知らず目を閉じて訪れるであろうキスを待った。その後のことを思えば恥ずかしさのあまり居た堪れないが、自分を見つめた黒い眸を忘れることはできそうもない。額に触れられた瞬間に感じた彼のコロンの香りも、そのまま弾けてしまいそうだった自分の心臓の鼓動も。
シャンティは奥手な娘で、女学校時代でさえ恋人と呼べる存在はいなかった。送り迎えをしていたクライヴが目を光らせていたとしても、友人たちの兄弟、また職人見習いの青年や新たにやって来た牧童たちなど、それなりに出会いには恵まれ相手に乏しかったわけではない。それでも噂話の聞き手ばかりを務めるに至ったのは、そのうちの誰にも単なる好感以上の思いは抱けず、相手を選ばず行動できるような勇気もなかったからだ。仲睦まじい男女を目にすれば羨ましさこそ感じるが、かと言って誰とでも簡単に触れ合えるような性質でもない。心に決めた相手でなければ嫌だと思っていたが故に、アラステアからの求婚も受け入れることはなかったのだから。
だが今しがたの出来事でもし唇が重なっていたなら、彼女はきっとレオンの為すがままに翻弄されていただろう。そのままこの部屋で1晩を過ごしたいと望まれたとしても、それを断ることなど果たしてシャンティにできていただろうか。断る理由を果たして自分の中に見つけられただろうか……そもそも彼女は本当に断りたいと思えたのだろうか。愛の言葉を誰かの前で口に出した経験もないのに、突如として身の内に生まれた大胆さに驚いてしまう。
旅が終われば去って行く相手に無謀な恋をしたところで、それは過去にしかならず未来にはなり得ないことは明白だ。しかし別れの時が最初からはっきり決まっているのならば、いっそ情熱の赴くままに当たって砕けたいとも思う。もしも他人に問われれば当然止めているに違いないのに、なぜ自分のこととなるとこんなにも心が乱れるのだろう。
このまま予定通りフォートヴィルへ旅を進めていけるならば、彼と一緒にいられるのもあと2ヶ月そこそこが精々だ。気まずい思いをしながら過ごすには少しばかり長すぎるが、一生の思い出を残したいと願うのならば短すぎる。それなら1つでも楽しい記憶を残したい娘にとって、そのどちらかを選ぶことは不可能に思えるほど難しい。
“……レオン……”
いつか黒髪の用心棒をそう呼べる日は来るのだろうか。だがロデオで大歓声を浴びていた姿を思い返すと、シャンティのそんな夢は笑ってしまうほど愚かにも思える。レオンがこうしていろいろな街でその名を馳せていたのならば、女に不自由することなどもちろん全くなかっただろう。そんな彼が田舎娘を相手にする理由は1つもない。ましてやレオンのような成熟した大人の男を相手に、興味を惹けるだけの魅力が自分にあるのかと自問すれば、答えを考えるまでもなく重苦しいため息が零れた。
借金を抱えた立場で、なけなしの家畜を担保に南へ向かう荒野の辛い旅。ろくに顔も洗えないような生活を続けるシャンティなど、彼にとっては女のうちにも入らないのではないだろうか。どんなに背伸びをしてみたところで心を動かすには足りず、レオンからの反応はキスとも呼べない挨拶1つだけだ。アラステアとの決闘に際して彼が言っていた形容詞、“乳臭い小娘”を覆すことはできないままなのだろう。悲しいがそれが現実で、今以上の何かを望むのは無謀という一言に尽きる。ましてや愛されたいなどと、そんなことは寝言でも言えまい。
同じ想いを込めた眸で甘くも切なく見つめてほしい。その両腕で身体が痛くなるほど強く抱きしめてほしい。息もつけないような口づけでこの唇をふさいでほしい――さりとてそれらを勝手に期待して傷つきたいわけでもない。恋とはかくも我儘な感情なのだと初めて思い知る。しかしそれに手綱をつけることなど一体誰ができるだろう? まるでロデオの馬のように暴れ回り跳ねるのが恋ならば、初めてその背に跨る娘は振り落とされてしまいそうだ。
“でも……それでも私は”
どんなに自制しようとしても焦がれる想いは止めようがない。レオンの掌の温もり、額に触れた唇を思い出しながら彼女は横になる。眠りに落ちるまでの間、あまりにも甘く忘れ難い思い出に浸っていたところで、こんなささやかな行為なら誰にも迷惑はかけないはずだ。それでももしまどろみの中に彼の影を見ることができれば、その時だけはシャンティも秘めた想いを打ち明けられるだろう。例えフォートヴィルに辿り着くまでしか傍にはいられなくとも、胸の中に芽生えた想いは間違いなく真実なのだから。
“……私はあなたが好き。好きなの、ミスター・ブラッドリー”
心の中で唱えた瞬間に胸の奥が切なく痛む。目が覚めればそれを口に出すことなどとてもできないからこそ、娘はせめて夢で逢えるように祈らずにはいられなかった。