数日毎に町や村へ立ち寄れる街道沿いだとしても、荒野を枕に眠る日々は旅を続ける限り終わらない。時には馬上で牛を追い、また時には馬車の御者台で日がな手綱を握りしめながら、5人は南のフォートヴィルの街を目指し足を進めていく。
 朝焼けが空を染める中、その日もシャンティはコーンブレッドとコーヒーで食事を摂った。例え背後から刻一刻と危険が迫っているとしても、隣で同じものを頬張っている用心棒がいる限り、これまでのように恐怖に慄き涙することはないだろう。そしてこの時間は小さな喜びを彼女に与えてくれる。こうして彼が口にしてくれる機会ももう少ないからこそ、手がける料理の全てには真心が込められていたのだから。

「お姫さん、今朝も美味かったぜ。あんただったら店が開けるな」
「!」

 密かに心を寄せる相手から出発間際にそう言われ、シャンティは自分の意思で抑えきれぬほど頬を紅く染める。だが礼を言うよりも早く彼はマースローの背へと跨り、軽い口笛1つで自在に馬を大地へと解き放った。彼女も乗馬の才はあり、優秀なカウボーイも昔からたくさん見てきたというのに、レオンほどの乗り手にめぐり逢えなかった頃を歯痒く思う――本当の恋を知らずにいられた懐かしくも幼い日々を。

“……ねえ、お母さん。何もかも手離して好きな人について行くことを決めた時、お母さんはどんな気持ちで家族と離れて独り残ったの……?”

 両親が出逢ってから結婚を決めたのはすぐだったと聞く。幌馬車隊で遥か遠くの土地を目指していた母にとって、そのまま別れていればもう2度と逢うこともなかった相手と、運命を共にする決断をさせたものは何だったのだろう。2人がいつどのようにして惹かれ合ったのかを尋ねたくとも、そんな問いに答えをくれる者はもうこの世のどこにもいない。
 シャンティは自分自身で結論を導かねばならないのだ。レオンを愛し、その想いを消し去ることなどできない以上、ふとした時に思い巡らせてしまう彼の黒い双眸は、止め処ない恋しさを若い娘の胸いっぱいにかき立てる。色恋にうつつを抜かしている場合ではないのは承知だが、レオンを慕う想いは何よりも彼女の心を占めていた。
 フォートヴィルまでの旅はたった数ヶ月で終わるものとはいえ、それは人生で最も濃密な時間となるに違いない。だがもし彼がその足をシャンティの隣で止めてくれるなら。目的地に辿り着いてなお傍にいたいと願ってくれたら、いつの日か再び共に荒野を駆けることもできるだろうか……。

“……綺麗……”

 長い1日の終わりを彩るように赤く燃える夕陽が、陽炎の中に彫りの深い横顔の影を浮き上がらせる。世界は橙がかった赤と漆黒の2色だけに染まり、栗色の髪の娘はその風景にしばし目を奪われた。レオンの表情は鋭さ故に厳めしくも感じられるが、だからこそふと緩んだ時の柔らかさは一層忘れ難い。今この瞬間彼女の眸が映すものは1つしかなく、そしてそれは青鹿毛の馬に乗る男でしかあり得なかった。

「なあゴードン、ちょっといいか?」

 夕食を済ませると夜番の者たちが火の傍を後にし、残った者はそれぞれ寛いで眠るまでの時間を過ごす。その晩の当番はテッドと共に見回りに行ったクライヴで、彼が独り戻ってきたのはそれからしばらくしてからだった。

「ダリアがついに産気づいた。悪いんだが見に来てもらえるか? あいつは少し身体が小さいから万が一が心配でな」

 ダリアは出発までに買い手がつかなかった身重の牝馬だ。長く出産の気配を見せずにここまで旅していたのだが、これで明日には群れの中に仔馬が1頭増えることだろう。

「クライヴ、それなら私も――」
「小娘は大人しく寝てろ。ここしばらくぼうっとしてる奴なんぞ頼りにする気はねえよ」

 手伝いを申し出たシャンティに牧童頭はそう言ったが、彼女が馬の出産に立ち会うのはこれが初めてではない。従って彼の意図するところはむしろその後半部分で、ゴードンは最近の彼女が普段と違うことを心配し、敢えてきつい言葉を選びつつ休むよう告げているのだった。

「若造、お守りは任せたぜ」
「ああ」
「…………」

 去り行く2人の後ろ姿を悲しげにシャンティが見送る。口の悪さの裏にある優しさは昔から知っているのに、なぜ今はそれが心に酷く刺さって仕方がないのだろう?
 カウボーイたちが彼女を家族のように見なしてくれていても、牧場の借金を彼らが返さねばならない謂れはない。シャンティとて当番の日には眠らず夜の見回りをこなし、欠ければ差し障りが出る程度には働いているつもりだが、それで責任を果たせているかと問われれば答えは否だろう。誰よりも身を粉にしていなければいけない立場だというのに、気づけば考えてしまうのは黒髪の男のことばかりだ。それを恥と感じながらも、こうして2人でいられる時間が嬉しい自分が恨めしい。
 やはり後を追いかけようか――しかし彼女を一瞬早く制したのは男の声だった。

「せっかくああ言われてるんだ、気にかかるんなら明日の朝早く起きて見に行ってやればいい」
「でも……」
「お姫さん、あんたは十分役に立ってるじゃないか。あんたが参っちまったらそれこそ男どもが困っちまうぜ」

 その言葉の意味がわからずきょとんとした顔をしたシャンティへ、レオンは黒い双眸をどこか眩しそうに細めて続ける。

「何だ、あんたはそんなこともわかってなかったって言うのかい。あんたがいるといないとじゃあいつらの働きぶりは別もんだ。男ってのは単純でな、そういう張り合いがあるとがんばろうとしちまう生き物なのさ」

 そして彼は不思議そうに瞬きしている娘を眺めつつ、自分自身に語りかけているような響きでぼそりと言った。

「あんたはそれだけの価値がある……恐らく俺に対してもな」
「えっ?」
「さあ、まだ寝ないなら俺は先に休ませてもらうとするぜ。何かあれば起こしてくれよ」
「は、はい。わかりました」

 “お休みなさい”と囁いた彼女の言葉にもう返事はない。焚き火の弾ける音だけが静まり返る荒野に響く中、シャンティは背を向けて横たわるレオンの姿を見つめていた。なぜ彼はいつも欲しいと思った言葉をかけてくれるのだろう。レオンが向けてくれる優しさは何もかもを癒してくれるが、その全てに報いるための時間と手段を彼女は持たない。こんなにも愛しているのに、それを言葉で伝える勇気も。

“このままずっとあなたと一緒にいられたらどんなにいいかしら……”

 だがそんな望みが叶うのもフォートヴィルを目指す間だけだ。彼を鳶色の眸に焼き付けておくことは今しかできず、いずれ用心棒とは必ず別れねばならない時が来る。その絶対的な事実がシャンティの背を強く押した瞬間、彼女はほとんど無意識のうちに想い人の名を呼んでいた。

「……ミスター・ブラッドリー……?」

 囁きにも反応はなく、レオンは寝入ってしまったらしい。娘は周りを見回すが、他には何の気配もなかった。これからしようとしていることはあまりに浅慮かつ大胆で、なぜそんな愚行を思いついてしまったのかはよくわからない。しかし相手の意識があればできるはずもない行為のために、彼女は立ち上がると足音を忍ばせて彼へ歩み寄った。レオンが眠りに落ちていることを確かめるとその膝を着き、狂おしいほどの愛しさに突き動かされて男を見つめる。

“お願い、どうか起きないで……”

 そう願いながらゆっくりと自身の眸を閉じたシャンティは、震える自身の唇でまどろむ彼の頬にそっと触れた。