「……どういうことだ?」
「だから俺が言った通りさ。潰れかけの鉱山村が苦し紛れについたでまかせだろ。ここからフォートヴィルまでは1ヶ月もかからねえってとこだが、実際に行って帰ってきた奴から直接そう聞いたんだ」
馬に鋤を引かせていた男は汗を拭い肩を竦めた。もはやその名を持つ村には街はおろか、人さえ住んでいないと聞かされた5人は黙り込む。
「おい……冗談だろ、街自体がなかったなんてよ」
絞り出すようにそう呟いたクライヴの声はやけに響き、隣に立ち尽くしたシャンティは何の言葉も継げないでいた。牛が10倍の値で売れるという噂こそ眉唾ものでも、フォートヴィルそのものが存在しないと考えたことなどない。そこには栄えた街があり、少なくとも故郷よりは高い値段で牛を買ってもらえる……そう信じていたからこそ辛く長い旅をしてきたのだから。
「ところであんたら見たところ連れてる牛を売りてえってんだろ? フォートヴィルじゃ何倍もの金になるって踏んで来たんだろうが、ここから先は町もないぜ。売っ払って身軽になりてえならうちでもいくらか買ってやる。多少の色ならつけてもいい」
需要のある場所で牛を売るためだけならばそれでもよかった。しかし相手から提示された額は相場の値とほぼ変わらず、挫折と引き換えに手に入れる代金としては微々たるものだ。女牧場主は家畜を望める限りの高値で渡し、それで未だ双肩にのしかかる負債を返さねばならない。共に来てくれた牧童たちに報いるだけの給金を出し、愛するレオンに約束した謝礼を払わねばならないのだ。本当に牛が10倍の値段で飛ぶように売れたとしても、その全てを賄えば手元には1銭たりとも残らない。ここで売れば言わずもがなだ。
だがシャンティが家畜の売却を拒む理由は他にもある。まるで一行を値踏みしているように下品な男の視線、そして何よりも日常的な酷使に疲弊し泥にまみれ、虚ろにこちらを見つめるだけの農耕馬の光のない目に、彼女は相手を信用してはならないとすぐに感じ取った。両親の教えに由来する直感を娘は疑わない。心が告げるそれを信じ、かつての女牧場主は男の前に1歩進み出る。
「どうもありがとうございます、ですがお断りさせてください。私たちはもう少し牛を連れて先へ進んでみたいので」
「……あん? 何だと?」
相手は突然口を開いたシャンティをじろりと睨んだが、怯みそうな心を叱咤しながら彼女は言葉を続けた。
「フォートヴィルが存在しないという話が本当だとしても、自分の目で確かめない限り諦めることはできないんです。だから――」
「は、場違いなひょろいガキかと思ったら女だったのか。誰もお前の意見なんぞ聞いちゃいねえだろ、わからねえのか?」
地方の閉じられた農村にはそう珍しくもないことだが、女は家畜同然という主張の持ち主も未だ多い。それでもその場を引かないシャンティのまなざしに苛立ったのか、目を釣り上げた男は信じられないような言葉で罵る。
「役立たずな女のくせして大層な口を叩きやがって。男みてえな格好してついて来るしかできねえあばずれが、大事な牛の売り買いに口出しできるような立場なのかよ? 今晩よく躾けてもらえ、お前が何のために連れてきてもらえてるのかわかるようにな!」
そう言い放った農民は一行の男たちを見回すが、当然ながら誰1人としてそれに頷く者などいない。彼女を侮辱するのは当然と言わんばかりのその男は、カウボーイたちの激しい怒りを帯びた目に戸惑うばかりだ。
「おい腐れ野郎、俺たちはな――」
「あんた、こんな状況でよっぽど頭がおめでたいと見える」
牧童たちはもはや爆発寸前という顔をしていたが、またしてもクライヴを押し退けシャンティの横に踏み出したのは、ここにいる誰よりも冷たい目をした黒髪の男だった。その声は日頃とは違い地の底を這っているように低く、彼に想いを寄せている身であっても気圧されずにいられない。
「俺たちはあんたの脳みその及びもつかないような理由で、わざわざこんな田舎くんだりまで足を伸ばして来てるんだぜ? 金をせびりたいんならそれなりの口の利き方があるだろう。交渉ごとの相手が男であろうと、そうじゃなかろうとだ」
レオンは酷く怒っている――計り知れないほどに深く。彼は見せつけるようにゆっくりとベルトに下げた銃を抜くと、その先端を狼狽える相手へと向けながら更に続ける。
「俺たちの手綱を握ってるのはこの“あばずれ”のお姫さんだ。何せ牧場主だからな、一言あれば用心棒の俺はあんたに引き金を引ける」
「や……っや、やめてくれ!」
驚いた男は後ずさりながら何度も首を横に振り、心底怯えさせたのを確かめてレオンは得物を収めた。さりとて内心で感じている怒りはまだ収まらないのか、黒い目を冷酷に細め追い打ちをかけることも忘れない。
「2度とその面を見せるなよ。こいつを喰らいたいってんなら俺はそれでも別に構わんが」
「……っ行け、行っちまえ! 後悔したって知らねえからな!」
そのまま村を後にするまで誰1人口を開かなかった。しかしフォートヴィルは既に存在しないと聞いてしまった今、女牧場主の胸中には戸惑いと迷いが生まれる。自分は無意味な旅に他人を駆り立てているのではないかと。
「小娘の分際にしちゃなかなか良い啖呵を切ったじゃねえか」
「ゴードン……」
「さっさと行くぞ。街がなけりゃないでもいいが牛は売らなきゃいけねえんだからな」
通りすがりざまに彼女の帽子を叩きゴードンはそう告げ、シャンティは安堵の涙を滲ませながら彼の背を見つめた――その時。
「おい」
すぐ後ろから聞こえた声に驚きつつもさっと振り向くと、そこには不機嫌そうな想い人が厳しい顔で立っていた。
「ミスター・ブラッドリー……」
「あんたが何を言われようと確かに俺には関係ないがな、気分がいいもんじゃないってくらいはあんただってわかるはずだ」
淡々としたその声は数日前のように心を抉る。シャンティとて意味もなく中傷されることは望んでいないが、正論を振りかざせば矢面に立つのがレオンである以上、罵詈雑言に耐えるだけなら決して難しいわけではない。何よりもそれで彼の身に降りかかる火の粉を防げるのなら、何を言われようと落ち着いて聞き流す覚悟はあるつもりだ。
「本当にすみませんでした、でも何を言われたって私は――」
「俺が嫌だと言ってるんだ!」
思わず声を荒げたレオンに彼女の肩がびくりと跳ねる。黒い目には一瞬苦渋の影が揺らいだような気がしたが、それもすぐに燃えるような怒りの中に溶けて消えてしまった。
「例えフォートヴィルまででもな、俺は他人にあんな下衆な勘繰りをされるのは我慢ならん。あんたとそんな関係にあると思われるのは真っ平なんだ」
「……!」
彼は吐き捨てるように言うとシャンティを追い越して去って行く。彼女はレオンの後ろ姿をただ黙って見送りながらも、しばらくその場に立ち尽くし1歩も動くことはできなかった。争いごとを避けるあまり、彼らの名誉と自尊心を傷つけていたのに気づかされる。想い人からの拒絶は自らの至らなさを痛感させ、これまでの自身の行動全てを後悔せずにいられない。再び馬上に戻っても何1つ考えることはできず、どうすればいいのかわからないままただ時間だけが過ぎていく。
その日も一行はいつものように荒野に寝床を定めたが、誰もが皆口数も少なくかき込むように食事を終えた。シャンティは仕事を終えると早々に幌馬車の中へ下がり、昼間の村の出来事を思えばそれを咎める者もいない。テッドとレオンが見回りに出て行く足音が遠ざかる中、彼女は誰にも気づかれないよう声を殺し独りで泣いた。