彼女が心に負った傷を少しでも和らげられるように、そして願わくばこの想いがほんの僅かでも伝わるように、レオンは持てる限りの真心と共に口づけを繰り返す。シャンティは彼を突き放し、何をするんだと頬の1つも打つことはきっとできたはずだ。だがその身体は初めこそ驚きのあまり強張っていたが、しがみつくようにジャケットを握る手は抗おうとしなかった。そしてついに彼女からも初々しいキスが返された瞬間、男の胸が狂おしい喜びで満ちたことは言うまでもない。
 望み続けた柔らかい唇を自身の舌先で掠め、躊躇いがちに開かれたその先を求め相手をかき抱く。それは他のことなど何も考えられなくなってしまうほど、この世のものとも思えない甘やかで素晴らしい行為だった。シャンティがレオンを受け入れ、拙くも応えてくれる度に尽きない愛情が込み上げる。何度も重なる唇はめくるめく夢の入り口にも似て、彼女の細い腕がいつしか引き寄せるのは男の背中だ。

“シャンティ……お前を愛してる。愛してるんだ、心の底から”

 今日この時、彼は初めてシャンティに名前で呼びかけた。それは今までの2人の間柄とは決定的に違う、新たな関係を求めまたそれを結ぶ印にも等しい。拒まれれば想いは潰え、単なる用心棒と雇い主の立場だけが残るだろう。だが、もしも彼女がレオンの名前を口にしてくれるなら。

「……レオ……ン……」
「――!」

 それは息もつけないような口づけが途切れた瞬間だった。かき消えそうな声だったが、しっかりと身を寄せる男の耳にはそれが確かに聞こえる。祈りは聞き入れられたのだ。縋りつくような腕を引き、2人の指と指とを絡め、零れたばかりの涙の跡を癒すように唇で辿る。必死に我慢していただろう嗚咽はだんだんと激しくなり、いつしかシャンティは堪えきれない声を上げて泣き始めるが、それでも彼が愛する娘の背を抱く手を離すことはない。

「ずっとこうしてやりたかった……お前が独りで泣いてるだろう時に傍にいてやりたかった」

 そう囁く男は彼女のなめらかな髪にキスを落とすと、涙に濡れた頬を優しく拭いながらそこにも口づける。彼の黒い眸に映るものは今やシャンティただ1人だ。

「お前をこんなにも傷つけた俺には言う資格なんぞないが、何でも独りで抱えるな。いいか、お前は独りじゃない――俺は最後まで傍にいる」

 人生の全てを捧げるにも等しいであろうその言葉を、レオンはこれまで決して誰にも告げようとは思わなかった。しかし彼の直感はそれを言うなら今だと訴えている。

「最後……ま、で?」
「ああ。俺はお前の傍を最後まで離れたりしない」

 幾度目かわからない口づけの後で彼女はそう問い返し、どこか不安げに揺れる眸に彼は頷いてそう答えた。
 ――それから一体どのくらい2人で抱き合っていたのだろうか。レオンはシャンティの表情に落ち着きが戻ってきたと見ると、まだ赤みの引いていない彼女の頬に手を触れつつ尋ねる。

「さて、お前が先に行くか? それとももう少し残りたいなら俺が一足先に出るが」
「え……?」
「一緒にいるところを見られてもいいならそれでも構わんがな」

 その口調にこそからかうような響きが込められているものの、彼がシャンティに向けるまなざしはとろけるように優しかった。レオンの細めた両目には黒曜石の輝きが煌めき、彼の心がいかに満ち足りているのかを言葉なく表す。それは紛れもなく愛する女を見つめる男の眸だ。

「私が……先に行きます。こんな顔を見られたらあの2人を心配させてしまうので、ゴードンのところに戻る前にどこかで洗って帰らないと」

 栗色の髪をした娘は足元に落ちた帽子を拾い、恥ずかしげに目元を染めながらレオンの問いに答えを返す。だが数歩を踏み出したシャンティは戸惑いがちに振り返ると、どこか寂しげな印象を与える微笑みを浮かべて言った。

「どうもありがとうございます……ミスター・ブラッドリー」
「!」

 小さな声でそう告げた彼女は小走りに厩舎を出て行く。しかし独り残った男は甘い余韻に浸る暇もなく、憮然とした面持ちのままその場に無言で立ち尽くしていた。原因はもちろん耳にしたばかりのシャンティの言葉にある。

“おい……そりゃねえだろ、ここまで来たらいくらなんでも”

 あんなにも情熱的な口づけを交わした後だというのに、まさか再び敬称をつけられるとは誰が思うだろうか? ついぞ口にはされなかったお互いの名前を呼ぶということ、それがどんな意味を持つのかに気づかない相手ではないはずだ。そして彼女自身も1度ならず熱いキスに応えた以上、レオンとてこのまま何も知らなかったと言わせるつもりはない。2人の関係を一変させてしまう儀式は既に成され、もはや彼らは単なる旅の同行者を超えているのだから。
 できるならば後を追いかけ、娘に直接問い質したい。あの口づけは彼女の意志でしたものではなかったのだろうか。この想いを受け入れてくれるという証ではないのだろうか? 確かにそれを迫るには適切な状況ではないだろうし、こんな時に敢えてすべき行動ではなかったことも認める。だがシャンティがひと時の慰めだけを求めていたのならば、愛し合う恋人同士のように応える必要はなかった。彼の理解が正しければ、そもそもかの女牧場主は何の好意もない相手と、こうして長きに渡り唇を交わし合える娘ではない。

“……どういうことだ?”

 半ば衝動的に恋心を打ち明けてしまったとはいえ、こんな奇妙な反応はさすがにレオンも予想できなかった。シャンティは何を考え彼の名を呼ぶことをやめたのだろう。やはり彼女の心を傷つけてしまった代償は大きく、我に返れば距離を置かれてしまうのは仕方ないのだろうか。こんなことをする前に失った信用を取り戻すべきで、自分の行為が褒められたものではないという認識もある。それでもレオンにとっては後にも先にもこの瞬間だけが、胸に秘めた想いを遂げられる唯一の機会だったはずだ。
 とろけるようなキスの終わり、男は鳶色の眸の中に確かに“その感情”を見た。彼がシャンティを見つめる時にはいつだってそうであるように、あふれんばかりの想いが彼女の胸の中にもあったはずだ。それが浅はかな思い込みやそれに類するものでないことは、シャンティ自身の甘い反応が証明してくれたはずだが、そうだとすれば別れ際の切ない顔がどうにも引っかかる。
 テッドやクライヴを気にしているというのともまた違うだろう。あれは恋人との別れを惜しむという風情のものではなく、むしろ……。

“……いや、やめだ。俺がどうして名前を呼んだのかはもうはっきり伝わってる。それを踏まえた上であいつは俺の想いを受け入れてくれた……”

 そう自分に言い聞かせたレオンが頭を振り顔を上げれば、想い人の馬であるミルキーウェイがじっと彼を見ていた。男はおもむろに手を伸ばし気品のある雌馬を撫でると、同じ色の髪をした娘を思い浮かべてそっと呟く。

「なあ、お前のご主人はとんでもなく難しい女だよ。でも俺は惚れちまったんだ、もうどうしようもないくらいにな」

 炎のように燃え盛る愛はレオンの心を突き動かし、流浪の生活に終わりを告げるための鍵を与えてくれた。彼女の眸に宿った星の輝きにその手を触れた今、シャンティを護り慈しむために彼は全てを捧げられる。彼女の想いが自身のそれに比べて弱いと言うのならば、同じだけの愛を受け取れるようになるまで傍にいればいい。
 最後まで――その命が尽きて天に還る瞬間まで、レオンはシャンティへの想いを貫く運命にあるのだから。