一方その頃もう1人の当事者たるうら若い娘は、建ち並ぶ厩舎の端にある井戸の水で顔を洗いながら、自分の身に起きたばかりの出来事について振り返っていた。

『俺の名はレオンだ、シャンティ』

 彼が紡ぎ出す低い声、静かな情熱が燃える眸。それらの全てに魅了され身動きできぬシャンティを抱きしめ、密かに想いを寄せていた相手は彼女に熱いキスをした。本当にもう顔も見たくないほど嫌われていたのであれば、あんなにも甘い口づけの味を知る機会もなかっただろう。さすればどういう経緯でか彼の方もまたシャンティに対し、いつの頃からか好意と呼べる感情を抱いてくれたのだ。それがどれほど嬉しかったか、言葉で言い表すことなど彼女にはとてもできそうにない。レオンの黒い双眸に優しさが満ちているのを見た瞬間、頬を伝い落ちた涙は悲しみからではなかったのだから。
 だがその胸を占めているのが喜びだけとも言い難いのは、何も相手の想いそれ自体を疑っているからではなく、シャンティが彼の言葉を真剣に聞いていた証でもある。さもなくば最後まで傍にいてくれるというレオンの誓いは、傷ついた彼女にとって何にも勝る慰めだっただろう。“最後”――旅立ってから先に用心棒がそう言う時、それが示すものが何だったのか知らぬままでいられたならば。

『最後まで――フォートヴィルまであんたと親衛隊は護るさ』
『安心しな、お姫さん。あんたは必ず俺が護ってやる。何があろうと旅の最後、目的地のフォートヴィルまではな』
『俺は最後まであんたを護る。フォートヴィルに辿り着くまではな』

 何度も繰り返し告げられたこの旅の目的地と期限を、今回ばかりは切り離したいというのは虫が良すぎるだろう。今でこそこうして数ヶ月間も一緒に旅をしているが、もし牧場に負債がなく、アラステアのような男が現れることもなかったとしたら、元より帰る場所の違う2人は宿を頼まれた翌朝、夜が明けると共にそのまま離れ離れになっていたはずだ。だからこそレオンにこの先もずっと隣にいてほしいなどと、現実からかけ離れた叶わぬ願いを抱いてはいけない。それはきっと彼本来の自由な生き方ではないのだから。
 同じ想いを込めた眸で甘くも切なく見つめてほしい。その両腕で身体が痛くなるほど強く抱きしめてほしい。息もつけないような口づけでこの唇をふさいでほしい。アレンカードの夜に望んだ全てが叶えられたというのに、シャンティの心はそれに満足せずその先を求めている。しかしどんなに深く一途な想いをレオンに注いでいても、フォートヴィルに辿り着けば彼はまたどこかに去っていくだろう。限りある関係をあっさりと受け入れるのは至難の技で、そんなことができる器用さも持ち合わせてはいないというのに、既に知ってしまった逢瀬は抗えぬ誘惑に満ちている。

“私は……どうすればいいの?”

 選べるのは一介の仲間としてこのまま旅を続けるか、あるいは短い間だけでもレオンと過ごす時間を持つか、どんなに頭を悩ませたところでそのどちらか1つだけだ。心のままに従うならば飛び込めばいいのかもしれないが、彼女は既にあまりにも深く相手を愛してしまっている。身も心も結ばれるようなひと時を共有してしまえば、残りの人生を独りでは生きられなくなってしまうだろう。けれど終わりは決まっていて、それを引き延ばすことはできない。だが彼の腕に抱かれ唇を交わす権利を得られるのも、また別れの日がやって来るまでのほんの僅かな間だけだ……。

「――あ、お嬢!」

 悩みを振り切るようにシャンティが病室へと足を向けると、中で待っていたテッドが安心した表情で彼女を呼ぶ。一体どのくらいの時間が経っていたのかはっきりしないが、壁際に立つクライヴの隣にはもうレオンが戻っていた。顔を上げてシャンティの姿を真っ直ぐ捉えた黒い目には、情熱と共に秘められた想いの欠片が淡く煌めくが、それはこの部屋を出ていく前には確かに見えなかったものだ。逢瀬が幻ではない何よりの証拠を目の当たりにして、まだ心の整理がつかないシャンティは思わず顔を伏せる。

「テディ、ゴードンの具合はどう?」
「もう少しすりゃ薬が切れるからじきに目が覚めるだろうとさ。いい医者がいて助かったよ」

 物問いたげなまなざしが注がれているのを感じてはいても、栗色の髪の娘にはどうすればいいのかわからなかった。彼をもう1度レオンと名前で呼びかけるべきだったのかも、それが象徴する新たな関係を受け入れるべきなのかも。

「なあお嬢……ここから先は街道沿いを行くことにしねえか? そうすりゃバロウズの動きも少しは掴みやすくなるだろうし、さすがの奴も街中でお嬢をかっ攫うのは無理だろうよ」

 眼鏡のカウボーイの提案はゴードンが負傷した時から、シャンティ自身も旅の安全のために考えていたことだ。眠る牧童頭を見つめながら彼女は小さく頷き、予定よりも2週間は長くかかるだろうこの先を思う。今が盛りの夏もフォートヴィルに着く頃には秋へ変わるが、その時自身は一体どんな状況に置かれているのだろう。負債を清算できるだけの紙幣をその手にできているのか、人影すらない寂れた町で途方に暮れているだけなのか。愛する男の心を変え得る奇跡を目にできているのか、去り行く彼の背中に泣きながら縋りつこうとしているのか。
 期せずして得たこの猶予が果たして吉と出るか凶と出るか、それは恐らく目的地に辿り着くまで誰にもわからない。そもそも立ち止まって考える時間は元よりないのだから、南を目指して走り続ける中で答えを見つけなければ。シャンティがこれから先を生きていくためのその身の振り方も、レオンから差し伸べられた手を取るのか拒むのかということも。

「どっちにせよ俺たちも馬もボロボロなのに変わりはねえしな。ここを出るのも明日以降だしお前も少し休めよ、シャンティ」
「クライヴ、でも――」
「俺が宿まで送ってやろうか?」

 そこで静かにそう申し出た腕の立つ用心棒の声が、以前よりも優しく感じるのは意識しているからだろうか。彼の言葉にその心は素直に舞い上がってしまうものの、2人きりになれば雰囲気に流されてしまいそうな気がする。彼女は不自然に泳ぎそうな目を何とかレオンに戻すと、できるだけいつもと同じ声音になるようにしながら答えた。

「あの……私、もう少しだけゴードンの傍にいます。良かったら先に休んでいてください、ミスター・ブラッドリー」
「…………」

 それが彼の望む返事でないことくらいはもうわかっている。だがテッドやクライヴもいる中、他に何と返せばいいのだろう。レオンはあからさまに不機嫌な様子こそ見せはしなかったが、ほんの一瞬だけ黒い目が訝しげに細められたことを、混乱した状況とは言え見逃すようなシャンティではない。

「テディ……クライヴも聞いて。ここは他にも人がいるし、私1人でいても大丈夫。みんな昨日は寝ていないし、後でまた交代してくれれば――」
「うる……せえぞ、小娘」
「!」

 その時病室に響いた弱々しくも太い嗄れ声に、全員の視線が示し合わせたかのようにベッドへと向かう。

「つべこべ言わずに……寝てろ。荷台で……寝てる暇なんぞ、この先……ねえんだからな」
「ゴードン……!」
「それに……話があるのは、お前じゃねえ」

 老牧童はシャンティが支えようとする手を軽くあしらい、倒れてなお強さを失わない目を用心棒に向けると、死にかけていたとは思えないほどはっきりとした声で告げた。

「若造、残れ」