一方焚き火の傍に残ったシャンティとクライヴの2人も、夜は更けていると言うのに不思議とすぐには寝つけないでいた。しばらく前から夜の冷え込みは徐々に厳しさを増しており、彼女は揺れる炎を見つめながら燻る灰をかき回す。
本来の予定通りならもうフォートヴィルに着いていた頃だ。回り道を余儀なくされたことで先延ばしになってはいるが、もし何の問題もなく南への旅が続いていたならば、今日という日がレオンと別れる日になっていたのかもしれない。彼との深く甘いキスも、その肌の温もりも何1つ知る機会を与えられぬまま。
“そうじゃないだけ幸せなことよ。もう私は知っているんだもの……”
心の中にふと浮かんだ寂しさを自ら打ち消すように、シャンティが思い出すのはランスバックで過ごした夜のことだ。何度も彼女の名を呼んだ恋人の情熱的な囁き。あらゆる場所をじっくりと味わうように触れていった唇。身体中を撫でさする大きな掌と繊細な指先。そしてシャンティを内側から満たす――。
「――シャンティ?」
「!!」
決して口にはできないようなことを考えていたその時、彼女は飛び上がりそうなほど驚いて勢いよく振り向く。これが昼間なら顔が真っ赤だと相手にもわかっただろうが、焚き火の光しかない夜だったのは不幸中の幸いだ。
「な……何? クライヴ」
「いや、だ、大丈夫か?」
兄貴分も予想外の反応に面食らってはいたものの、すぐに本題を思い出したのか真面目な顔をして尋ねる。
「なあ、フォートヴィルで牛を売ったらその後お前はどうする? ……借金は消せても“戻る”にはまだ足りねえ、って時は」
それは彼にしては相当に気を遣っている言い方だった。クライヴとは昔から衝突することも少なくなかったが、今もこうして寄り添って危険な旅を続けていられるのは、血の繋がり以上の絆を長い年月が築いたからだ。些か彼女を子供扱いし過ぎるきらいはあったのだが、兄代わりのおかげで助けられた思い出もまたたくさんある。それを息苦しく感じる時も正直あるにはあるものの、クライヴはずっと一緒にいてくれた良き兄であり友人で、その思いはこれから先2人の道が分かれても変わらない。
「私は……住み込みの仕事を探そうかと思ってるの。宿屋とか、料理のできそうなところなら良さそうでしょう」
「宿屋? 宿屋か……」
「クライヴ?」
誰にも言ったことのない秘密を明かすと彼は顔を顰め、シャンティはそんな態度をどこか不思議に思いつつ問い返す。しかし何事か思い巡らせている様子のクライヴを見て、彼女は長年の経験からその意味するところに気づいた。こういう時の彼が考えているのはありがたくないことだ。
「……ねえ、あなたまさかまだ私のお目付役をするつもりじゃ……」
「あ? そんなの当たり前だろ。お前みたいな奴はどこで変なのに騙されるかわからねえ。何かあってからじゃライアンに顔向けできなくなっちまうしな」
「やめてよ!」
あっさり答えたクライヴにシャンティは抗議の声を上げるが、それは何も彼女の意思に反しているからだけではなかった。彼にも自分の夢があり、その実現を目指すための道を選ぶこともできるのだから、メイフィールド家への恩義で自身を犠牲にしてほしくはない。本当の望みを諦めて生きていくのがどれほど辛いか、時期が来れば別れる恋人を持つ娘はよくわかっている。だからこそシャンティはせめて自分の周りの者たちだけでも、自身が手にできない幸福を掴んでほしいと願っていた。
「あなたは馬の調教師になるんだってずっと言ってたじゃない。宿屋じゃそんな腕は必要とされないことくらいわかるでしょう? あなたが行くべきところは私と同じじゃないのよ、クライヴ」
「な……何だよ、急に」
突然涙ぐんだ妹分に兄代わりが狼狽えるが、彼女は自分が間違っていないという確かな自信がある。他の誰かのために生き方を変えるのは正しくないことだ。レオンとシャンティがこの先もずっと共にはいられないように、人にはそれぞれ自分が自分らしくいられる人生がある。もしもその道を外れてもいいと思える時があるとすれば、足を踏み外した先に広がる新たな別の世界こそが、本来の自分の居場所なのだと信じられる時だけだろう。少なくともそれは目の前にいるカウボーイには当てはまらず、彼女が愛する黒い目の男の場合にもなりそうもない。
終わりまでもう数えるほどしか残されていない時間の中、シャンティはレオンが愛の言葉を告げないことに気づいていた。もちろん彼の行動はその好意を示してくれてはいたが、好きだとも愛しているとも口にして伝えてはくれないのだ。心の伴わない言葉だけが欲しいわけではないとは言え、日頃から自身の言動に責任を持つレオンだからこそ、彼女は終わりのない夢を思い描くことなどできなかった。彼はどこか1つの場所に留まれないといつか言っていたし、かと言ってシャンティがレオンの後を追いかけていったとしても、いずれこの恋が本当の意味で終わりを迎える日が来れば、彼女は何も持たずに見知らぬ場所で独り残されるだけだ。
自分では彼の根幹を成す生き方を変えることはできず、さりとてその心を繋ぎ止められるだけの魅力も持たない。頭に浮かぶ結論はどれも皆希望のないものとなれば、シャンティは冷静に将来を見つめ直さねばならなかった。魂を燃やすようなレオンとの一夏だけの恋の終わり、もしそこに何かが残るとすれば良い思い出であってほしい。そしてそう願うのであれば彼には泣き言1つ言わぬまま、約束通りフォートヴィルで別れる他に道などないだろう。
いつの日か憎まれ、あるいは厭われて袂を分かつなら、懐かしく思い出してもらえるような存在のままでいたい――彼女は哀しいほど一途にただそれだけを望んでいたのだ。
「それに私だって結婚していてもおかしくない歳なのよ。いつまでも誰かに面倒を見てもらう必要なんてないの」
「け……結婚なんてお前にはまだ早過ぎるだろ!」
「じゃあいつならいいって言うの? 30、それとも40? その頃になってもまだもらってくれる人なんているのかしら?」
「――っ!」
クライヴの顔にははっきりと“それはそれで困る”と書いてある。彼は歳の割に意外なほど古風な性質で頭が固く、もしシャンティが既に男と夜を過ごした身だと知ったなら、怒りと困惑のあまりこの場で卒倒してしまいかねない。
「……ねえ、クライヴ。お父さんだってあなたたちにはフォートヴィルまでと言ったんでしょう? その先のことは心配しないでも独りで大丈夫だって、そっちの言葉も忘れないようにしてもらわないと困るのよ」
「でもよ……」
「それに他人の心配より自分の心配をしたらどうなの? 私を見張っているうちにあなただって歳を取るんだからね」
彼女が悪戯っぽくそう言うと兄貴分は唇を噛み、さっさと寝ろと怒ったように言い残すとくるりと背を向けた。シャンティは小さく笑うとその言いつけ通りに毛布をかけ、数多の星の下で目を閉じると黒髪の恋人を想う。
“……レオン……”
ある日偶然彼女の小さな閉じられた世界に現れた、ロデオの名手にして驚くほどに腕が立つ銃の使い手。地平線の果てを既に知る黒曜石のような彼の目は、いずれまたその向こうに去って行く日が来ると暗示していたが、どれだけの涙を流そうともシャンティは後悔しないだろう。ひと時とは言え限りない優しさを注いでくれた男と、生涯胸に刻まれるであろう激しい恋に落ちたことを。