――ここで時は少し昔、およそ3年前に遡る。それは次なる獲物を求め東へと流れる途中のこと、反吐が出そうなほど穏やかな田舎の町での出来事だった。馬の脚が折れねばこんな場所に全く縁のない男は、無造作に伸ばした髪をかき上げると小声で悪態を吐く。地味な酒場で昼間からショットグラスを呷るだけというのは、彼のような人間にしてみれば酷く“まとも”な行為なのだ。
 値をつければ他とは桁が違う素質だと見抜いたからこそ、持ち主の命を奪ってもその馬を手に入れたというのに、こうも早く使い物にならなくなるとは誰が思うだろう? 近場で手下に新たな足代わりを調達させてはいるが、手荒な手段を控えさせれば時間がかかって仕方がない。だがこの手の町でひと暴れしようものなら確実に目立ち、有象無象の賞金稼ぎを撒いた意味がなくなってしまう。それまでの経緯を思い出せば再び苛立ちが蘇り、彼らのうちの幾人かを屠った火薬の匂いが恋しい。男は獣のような衝動を強い酒で紛らわせつつ、黒い眼帯の下に隠されていない鈍色の左目で、窓の向こうに見える陽当たりのいい大通りを睨んでいた。
 こんな田舎では手に入る女の質もたかが知れているが、娼館にでも行かなければとても時間を潰していられない。そして彼は汚い金で支払いを済ませようとしたのだが、突如店の外から聞こえてきた耳障りな甲高い声、それに続いて姿を見せた女学生たちに眉を顰める。

「……親父、一体何だ? あの小娘どもは」
「ああ、今日は町の女学校の卒業パーティーなんでさあ。いつもは小生意気でけたたましいだけの娘っ子たちだがね、着飾れば案外見られるようになるって驚いてるもんで」

 店主は跳ね扉越しに娘たちをちらりと一瞥すると、平和そのものといった様子で悠長にのんびりと答えた。若い女たちは通りを抜けそれぞれの家へ去っていくが、出ていくタイミングを逃した男は再び席へと戻り、剣呑な目つきでそれを眺めながら酒を流し込んでいた――その中の1人を灰色の眸が捉えるまでは。

“……ほう! こんな田舎にも色気のある女がいるじゃねえか”

 彼の目を引いた娘は今まで出会ったどんな女よりも、男の欲望をかき立てる美しい身体つきをしていた。膝丈のドレスから覗く脚は細いながらも艶かしく、絶妙な曲線を描く腰の括れも実に魅力的だ。人目を引きつけずにはおかないだろう彼女の豊かな胸は、男の骨ばった大きな手にすらもまだ余りそうなほどで、露わなデコルテからもわかる若々しくきめ細かい肌は、意図を持って吸い付けばさぞや綺麗な痕が残ることだろう。そのまま目を上げれば健康的な愛らしい横顔が見え、栗色の髪が零れる項に彼はつと唇を舐めた。
 若い女は大抵が姦しいために好きではなかったが、こうもそそる要素ばかりを持ち合わせていれば話は違う。言葉巧みに連れ出せば一晩中愉しめるに違いない……。

「勘定だ、取っときな」
「――へ? お、お客さん!?」

 あらかたの女学生が去り表通りが静かになった頃、狙いを定め気分の高揚した男はふいに席を立つ。明らかに多すぎる額面を渡された主人は戸惑うが、よく見れば元の所有者の血が飛んでいるであろう紙幣など、欲しくなればまたそこら中でいくらでも手に入れられるものだ。従って彼は金払いが極めていい類の客であり、その金の出処を気にかけないでいられる店主にとっては、決して逃したくない上客の1人であったかもしれない。ただ好奇心に負けて秘密を詮索してしまったが故に、金と命を奪われる側に回った者もまた多かった。この長閑な町の酒場の主人は聡い方ではなかったが、それ故に生き延びられたのは幸いの一言に尽きるだろう。

“さて、それじゃ始めるとするか”

 法規を犯す者の常として、男は身を隠した場所の地理を把握することに長けていた。どの路地をどの順番で通れば最速で逃げ果せるのか、追っ手を撒いた上で反撃に転じられるのはどの通りか。こんな小さな町でさえも身に染み付いた癖の1つとして、その頭に浮かぶ即興の地図は行くべき道をはじき出す。目当ての女が既にどこかの扉の向こうに消えていても、それは探し出し追い詰めるまでの遊びが増えるというだけだ。彼にとって全ての女は自分を愉しませるためにあり、1度手に入ってしまえば後は邪魔でしかなかったのだから。

「それじゃあ気をつけて帰ってね。こっちに出てくる用事があればいつでもうちに寄ってちょうだい」
「どうもありがとう、マディ。このベルはお客様用にするからあなたもまた遊びに来て」

 入り組んだ裏道を通り、再び開けた場所に出た男はその会話に足を止める。曲がり角の向こうから快く響いてくる声の持ち主、彼女が先ほど目をつけた相手だという勘は当たるはずだ。

“ほらな……見つけたぜ”

 そちらを見やれば思った通り栗色の髪の娘がいる。呆気なく遊戯が終わりそうではあったがなぜか不満はない。あの美しい脚に沿ってドレスを捲り上げる時を思い、彼は心躍る標的に唇で歪な弧を描いた。
 男は自らの力で這い上がってきたという自負があり、また他人にはない運に恵まれていることも自覚していた。彼はそういった数奇な星の下に生を受けているのだろう。そして男が8つの時、初めて銃の引き金を引き人を撃つことを覚えた日から、自分の身に備わったそれを片時も疑ったことはない。彼には邪悪な望みを同じくする悪魔がついているのだ。どんな銃弾の雨や刃物の切っ先からも命を護り、欲したものを掴み取る手助けをしてくれる危険な魔物。悪逆の限りを尽くそうとも官憲の手をすり抜け続け、今日まで至ったことはそうとでも言わねば説明がつかない。
 若い娘は独りで再び中央通りを歩き始め、男はその背後を付かず離れずの距離を保ちついて行く。人目がなくなる場所まで来れば直接声をかけてもいいし、住まいがわかれば時間をかけてゆっくり落としにかかればいい。だが道の向こうからこちらへと走ってくる少年の姿、自分とは無縁のそれを視界の隅に認めてしまった時、彼の眉間にはほぼ無意識のうちに数本の皺が寄った。

「――あ!」

 案の定子供は栗色の髪の娘のすぐ傍で転び、持っていた紙袋からはプラムの実が路上に散乱する。砂色の髪の男がこの少年よりも幼かった頃、薄汚い路地裏でこんな風に転倒したことがあった。同じように落とした袋の中身などもう忘れて久しく、どこかから盗んできたものという以外の記憶はなかったが、その手を離れた戦利品を卑しく掠め取った盗人が、去り際に蹴り上げた脇腹の痛みははっきり覚えている。
 今や彼は奪われる弱者から奪い取る強者へと変わり、悔しさのあまり噛み締めた唇から滲んだ血の味など、当時の恥辱と共にとうの昔に忘れ去られてはいたが、その頃の絶望を呼び覚ますものを男は憎悪していた。黒く塗り潰したところで何度でも浮かび上がってくる過去、それもまた自分の一部なのだと認めることを拒むように。

“チ……こんなところでまた嫌なもんを見ちまったな”

 苛立ちつつも彼はグレーの眸で娘を見つめ続ける。この手の女は子供を無碍にはしないとそう睨んだ通り、彼女は包みを拾うと潰れていない実をその中へ集め、座り込んでべそをかいている少年に細い手を差し伸べた。その手を取って子供が立ち上がると若い娘は膝をつき、土で汚れた少年の服を払ってから髪を撫でてやる。

「大丈夫。もう泣かないで」

 そして優しい声が涙を拭く子供にそう告げた瞬間、男は稲妻に打たれたように強く彼女を熱望した。