いくら手綱を引こうと、何度も必死に合図を送ろうと、気高い黒馬はその背に乗せた娘を主人とは見なさず、ただ真の主の命令に従って彼女を運んでいく。

“嫌……嫌、こんなこと……!”

 その馬体が一瞬にして軽くなりスピードを上げたことと、真後ろで聞こえたあらゆる種類の物音が何を指すのか、それはもはや自ら振り向いて確かめる必要はなかった。いくら覚悟を決めていたとしてもこうして仲間たちと離れ、たった独りで広い荒野を行く当てもないまま駆けていると、何もかもが間違っていたのではないかとしか思えなくなる。故郷を離れて成し遂げたかったものは何だったのだろうか? こんな犠牲を払ってまでも手にすべきものだったのだろうか……?
 決定的な瞬間を自分で目撃していないとは言え、この速さで走る馬から不自由な体勢のまま落ちれば、どんな結果を招くかなどシャンティが予想できぬはずもない。どんなに望みを繋ごうとしても現実は極めて非情で、彼女は涙を拭うこともできずただ馬の背にしがみつく。娘の胸には幼い頃から今日この時までの記憶が、浮かんでは消える走馬灯めいて1つずつ蘇っていた。
 お互いの肩を抱き微笑んでこちらを見ている父母の姿、乳搾りのやり方を教えてくれたゴードンの皺のある手。テッドと釣った大きな鱒、クライヴと競った乗馬の腕。しかしそれらの場面があの日の母屋の裏口へ飛んだ時、ついにシャンティの唇からは堪え切れない嗚咽が漏れる。黒髪の男との出逢い、そして彼と共に過ごした旅の日々があまりにも眩しくて。

“ああ……!”

 レオンと交わした口づけを、抱かれた腕の力強さを、栗色の髪の娘はまだこんなにもはっきり覚えている。フォートヴィルに着けば別れなければならないという苦しみさえ、永遠に彼を失うことと比べれば何と軽いことか。例えもう逢えなくなってもどこかで生きていてくれさえすれば。この空の下にレオンがいるという希望を持てるのであれば、シャンティはそれ以外のことなど何1つ望みはしないのに。

「……まれ、止まれ!」

 そんな時、彼女は誰かがそう呼びかける声を捉えた。顔を上げれば馬上で大きく腕を振る口髭の男と、更に数人の人影がこちらへと向かって来るのが見える。新たな敵かもしれないという恐怖にシャンティは震えたが、黒い馬は不思議と速度を落とすと彼らの前で止まった。

「あんた……女か? 独りで? 一体どこから来たんだ!?」
「あ……わた、し」
「とにかくまずは馬の水からだ――おい、そこの桶を貸しな!」

 馬を降りて駆け寄ってきたのは大柄な中年の男で、腰に銃を下げてはいるもののそれに手をかける様子はない。呼びかけられた若者が慌てて木桶を持って走り寄ると、髭を蓄えた男はそこに皮の袋から水をあける。

「ほら、あんたも少し飲みな。とんでもなく酷え顔色だ」
「あなた……たち、は……?」

 息も絶え絶えに馬を降り、差し出された水を受け取る娘は青白い顔で尋ねた。アラステアの仲間だと感じられるような雰囲気はなくとも、突如現れた一団の素性を確かめずにはいられない。

「俺たちはフォートヴィルの街の志願者で作った決死隊だ。バロウズとかいう悪党を殺るか食料を持って帰ること、そのどっちかを達成できんと街には死体の山ができる」
「!!」

 その答えに彼女はカップを取り落とし思わず息を呑んだ。シャンティは気圧さんばかりの勢いで隊長の腕を掴み、自身が何者かを明かすと地に手をついて助けを求める。どんな時も雇い人を護るためにあらゆる手段を尽くす、それが牧場主たる人物の果たすべき責務なのだから。

「お願いします、どうか私の仲間たちを助けてください!」
「……お嬢さん、あんたの気持ちもわかるが俺たちは……」

 だが1人がそう言いかけた時、先頭に立っていた口髭の男が周りを一喝する。

「馬鹿野郎、このお嬢さんは牛を連れてきてくれたんだぞ? 湖の魚もあと2、3日ですっかり底をつくんだぜ、久々に分厚いステーキに腹いっぱいありつこうじゃねえか! お前らだってバロウズとやり合う覚悟で街を出たはずだろ、今更逃げる奴ぁいねえよな!?」

 腰が引けつつあった男たちの目に再び勇気が宿り、それを見た口髭の隊長は大きく頷いて振り向いた。

「ミス、先導を頼んだ。それから俺たちは腐っても鉱山で働く男たちだ、礼は上等な肉で頼むぜ」
「……!」

 シャンティは涙を浮かべて礼を言いマースローに飛び乗ると、脚を壊さずに済む限界の速さで荒野を戻っていく。ところが落ち着きを取り戻した牛たちの群れを抜けた後も、だんだんと濃くなる硝煙の臭いの中にもレオンはいない。どうかテッドたちのところにいてほしいと何度も祈りながら、決死隊の面々と共についにあの川辺へ辿り着くと。

「テディ、クライヴ!」

 それは川の色が紅く染まるほどの凄惨な現場だった。倒れた2人は血まみれで、一見すればもはや彼らの命はないようにさえ思える。しかし呼びかけに応えるように2人はうっすら目を開けると、まだ力尽きたわけではないことを懸命に知らせてくれた。

「シャン……ティ……」

 助け起こされたクライヴは辛うじて彼女の名を口にする。周りに幾人も倒れ伏している敵はもう事切れていて、アラステア以外の者は2人が撃ち果たしたことがわかった。だがテッドは脚に深手を負い、酷い出血のためか未だに意識も朦朧としたままだ。そして鳶色の眸が必死に探すもう1人はと言うと……。

「ミス、馬から落ちたっていう3人目の奴はどこにいる?」

 その問いに誰もが瞬間的に抱いた恐ろしい予感を、眼鏡の牧童が上げた精一杯の一言が裏付けた。

「奴さんは……戻って、ない……」
「……!!」

 死の匂いに満ちた荒野は水を打ったように静まり返り、もはやレオンの命は尽きたという空気が辺りを取り巻く。シャンティはそんな結論を拒むように1歩後ずさったが、黒馬の首筋に縋りつかずにはもはや立っていられない。

「!」

 しかしマースローは馬体を捩りそんな彼女を振り払うと、黒い眸でシャンティを見つめ勇ましくその鼻を鳴らした。無事だと信じられないのなら触れるなと言わんばかりのそれに、持ち主と同じ気高さを感じた彼女は心を打たれる。この馬は主人の元へ帰ることを諦めていないのだと。

「マースロー」

 この状況でもなおレオンを助けたいと言うのは我儘だ。ここまで手を貸してくれた決死隊を巻き込むことなどできず、一刻も早くフォートヴィルへ向かうのが最善の策だろう。しかし――。

「無理をさせてごめんね。でも……」

 不可能だからこそ同じ希望を抱く者が必要なのだ。彼を助けるためなら命も惜しまない覚悟を携えた、その相手はこうして牧場の娘の目の前に立っている。

「ご主人のところへ行きたいの。お願い、私を連れて行って」

 そう告げた彼女を黒馬は主人に似た目でじっと見つめた。そして黒い絹糸のような尻尾が1度だけ振られた時、シャンティは再び鐙に足をかけ簡素な鞍に跨る。

「おい、ミス……あんた一体どこに行こうってんだ?」

 隊長はすかさずそれに気づき馬上の娘へ問いかけたが、シャンティは何も答えない。

「……!!」

 カウボーイたちも青褪めた顔で何とか彼女を見上げたが、長年シャンティを知る2人はその目を見て全てを悟った。女牧場主の心がもはやこの場所にないということ、そしてもう何人たりとも彼女を止められないということを。

「ごめんなさい。今までありがとう」

 2人にそう言い残すと娘は愛した男の馬を駆り、引き留める言葉が叫ばれるよりもなお早くその場を去った。