馬は優れた嗅覚を持ち、時には自らの主人の心の動きさえをも知るという。人間には到底真似できない彼らのこの能力なしに、限られた時間で行動することは不可能だっただろうが、離れてなおレオンに忠誠を誓っている彼の黒馬は、シャンティを迷いなく荒野の彼方の小高い丘へ運んだ。
「マースロー……?」
頂点の手前で脚を止めた馬に彼女は声をかけたが、4本脚のパートナーが歩みを進めそうな気配はない。その合図を読み取れぬ者ならば無警戒に姿を晒し、あるいは気づかれて然る音を丘の頂で立てただろう。しかしシャンティはそれらによく通じている牧場の娘だ。そして何か1つでも見誤ればその時に全てが終わる、そんな筆舌に尽くし難いほどの極限の緊張感は、彼女の生まれ持った直感を限界まで研ぎ澄ませていた。荒野を渡る乾いた風に栗色の髪をなびかせながら、シャンティはそっと身を伏せて慎重に丘の下を覗き込む。
「……!」
痛々しい姿に目が潤むも愛しい男は生きていた。それでも声を上げて泣き出すのは全てが終わってからでいい。
この距離から狙いを過たず銃を使いこなせない以上、彼女は何としてでもアラステアに近づく必要があった。だが今にも敵が引き金を引きかねないという状況下で、1度丘を降りてから正面へ回っている余裕などない。残されたほんの僅かな時間でできることには限りがあり、あらゆる可能性が一瞬の間に脳裏をよぎっていく。しかし数え切れぬほどの考えが浮かんでは消えていく中、たった1つ残ったものは何より単純な方法だった。
眼下に広がる急斜面を馬の背に跨って駆け降りる、それがどんなに危険なことかを理解できない娘ではない。下手をすれば1歩踏み出した瞬間に死が待っているだろう。だがそれが恋人を救う唯一の道だと信じたならば、その強い意志は全ての困難に打ち勝つ勇気へと変わる。彼女はすぐ後ろに佇んでいるマースローを振り返ると、同じ意志を確認するように覚悟を決めて鞍へ戻った。気高い黒鹿毛の馬はあたかも引き絞られた弓のように、全身の筋肉を緊張させたまま乗り手の合図を待つ――戦場に向かって飛んで行く矢の如く解き放たれる時を。
「死ね!!」
レオンの言葉に逆上したアラステアが叫ぶよりも先に、シャンティはマースローと運命の瞬間へ身を投じていた。普通の馬なら騎手共々転落する斜面を飛び渡り、俊敏な野馬の血を引く黒い影は崖下へと駆けていく。下手なロデオよりもよほど命を危険に晒すこの行為に、乗り手の神業的な技量が問われることは言うまでもない。卓越した感覚がなければ生き残れない数秒間は、馬上の彼女にとってまるで永遠のように長く感じた。
「――!?」
その時片眼のならず者が瞬時に背後を振り向けたのは、見開かれた敵の黒い目の中にあり得ぬ影を見たからか、それとも彼に取り憑く悪魔が迫る危険を知らせたからか。あとほんの少しでも遅ければ引き金を手前に引いていた、そんな一瞬を狙い澄ましたように現れた第3者へ、身体はそれが何者かを確かめるより早く銃を向ける。しかし異様なほどの命中率を誇る目は気づいてしまう……跳ね飛ばされた帽子の下から風に舞った栗色の髪を、何より求めて止まない愛する娘の鳶色の眸を。
「シャ……!」
隠れ家の安全を確保する一助ともなっていた丘から、自らの命も顧みず崖の下へ駆け降りてきた者。それが狂おしいほど焦がれている女でさえなかったならば、間違いなく今の一瞬でその胸を撃ち抜いていただろう。アラステアは他人の血を散らすことを厭わぬ男だったが、自分の邪魔をしようとするこの娘を確かに愛していた。銀の短銃が引き抜かれ、それが彼に向け構えられても、なお引き金にかけた指を動かすことができないほど深く。
小さな銃口が火花を散らしても1発目は空を切る。続く2発目、3発目も傷をつけるまでには及ばない。人を相手にするどころかまともに撃ったこともないだろうに、不安定な馬上からともなれば結果などたかが知れている。しかしシャンティは諦めず、4発目、5発目が地面を穿っても手を下ろさない。そして最後の1発がまさに放たれようとしたその刹那、鳶色の双眸と灰色の片眼がお互いを見つめ合う。
彼女がこんなにもはっきりとアラステアを見たことはなかった。求婚のために牧場を訪れ目の前にいた時でさえ、彼を拒む眸は脅さぬ限りそちらを見なかったものだ。だが娘は今初めて自らアラステアをその目に映し、傷ついた恋人ではなくただ彼1人だけを見つめている。そんな背徳的な歓びに魂が打ち震えた瞬間、男の脇腹を燃えるように熱い最後の弾が掠めた。
「く……!」
アラステアは思わずライフルを取り落としその場に膝をつく。心臓が脈を打つごとに傷から紅い雫が滴るが、それは致命傷にはなり得ない程度の実に可愛いものだ。まぐれで当てられたとしても、シャンティは本来銃で他人を殺せるような女ではない。いかに強がってみたところで彼女の弾が尽きている以上、レオンさえ消えれば愛する女はついに彼の情婦となる。この手を振り払い続けた娘も逃れることはもうできない。
“ハ……全くどこまでいっても気の強いじゃじゃ馬女だ。ブラッドリーの野郎を撃ち殺したら必ず手に入れてやる……!”
愛しているからこそ憎い、普通の神経の男ならばきっとそう感じることだろう。しかし悪魔の加護を受ける彼は自身の勝利を疑わず、血で濡れた手を無造作に拭うと銃を持ち再度立ち上がる。
「ハハハ! 待ってたぜ、シャンティ!」
シャンティは恋人の拘束を解くや否やレオンの手を引き、手近な岩場の陰へ駆け寄ると敵からの狙撃を躱した。用心棒を狙った銃弾は岩を削るに留まったが、込めるもののない2人の武器などもはや何の意味も為さない。対するアラステアにはまだ十分すぎるほどの余裕があり、無力な獲物を追い詰め嬲り殺せる悦びに満ちている――特に、そのすぐ後に極上の愉しみが待っている今は。
「レオン、傷を――」
「馬鹿野郎!」
一方、岩陰ではまだあちこちに血が滲んでいる男が、止血をしようとしている女の細腕を乱暴に掴み、もどかしさにきつく眉根を寄せたまま彼女に詰め寄っていた。
「お前、どうして来たりした……!」
そんな相手の反応は彼女とて想像できていたものだ。しかしテッドやクライヴ、ゴードンや両親から託された願いに自ら背を向けるとしても、レオンを見捨てて生きることにシャンティはもう意味を見出せない。どんな生き方を選んでも、その魂が真の輝きを放てるのは彼の傍だけだ。レオンを失うということは自身の命を失くすに等しい。いかなる状況にあっても、それぞれの元へと互いを引き寄せ合うほどの強い絆を、心から愛する者との間に結んでしまった後では。
「ごめんなさい、でも……っ!」
だがレオンは全てを聞き終わるより早く彼女の腕を引き、痛いほどに強く力を込めて恋人を胸に抱きしめる。間を置かず重ねられる唇に娘は涙を浮かべたが、今はまだそれを流して再会を喜ぶべき時ではない。
「俺のために死のうとするな。シャンティ、俺のために生きろ」
真剣な表情で告げる男の顔に夕陽が照らし出す、乾いた血の痕は先住民の戦化粧によく似ている。遥か古の時代より、決して負けられない戦いに赴く相手へ祈りを込め、妻や恋人が手ずから施したという風習の由来を、果たしてこの場で向かい合う彼ら2人は知っていただろうか。
「いいか、俺の生きる場所はどんな時だってお前の隣だ。お前がこの世にいる限り、必ずお前のところに帰る」
その言葉に1度だけ深く頷いた娘の頬の上を、希望の涙が流れ星のように煌めいて滑っていった。