「お久しぶりです、ブライトン夫人。そして初めまして、カッシング子爵令嬢。エミリア・ハイラントです。こちらは夫のジェレミー」
「リッジウェイ伯爵夫人、カッシング子爵令嬢、我が家へようこそ。来週の半ばには我々も領地へ戻るものですから、その前にお会いできて幸いでした。狭いところですが今夜はどうぞ寛いでパーティーをお楽しみください」

 ボーモント子爵邸を訪れたアンヌは屋敷の中へ入るや否や3人の子供たちに迎えられ、少しずつ人の集まりつつある広間でこの家の主夫妻と温かい挨拶を交わした。今夜のパーティーは結婚相手を探すためのものではなく、純粋にハイラント夫妻の知人たちと楽しい時を過ごすためのものだ。だからこそアンヌは義務や責任から解放されて肩の力を抜くことも、ゆっくりと会話を交わしながら並べられた料理の数々を味わうこともできる。中には子連れで訪れる客さえあり、屋敷の中は賑やかだがこじんまりとした心地のいい雰囲気で満たされていた。それは仲睦まじいことで有名なジェレミーとエミリアの人柄が成せることであり、アンヌにいつかこんな家庭を築きたいと願わせるには十分だったことだろう。
 だがそうして可愛い子供たちに囲まれている未来の自分を思い描く時、もしも隣にいてくれたらと夢見た相手にはもう逢えない。別の女性の夫となる相手に焦がれてしまった想いなど、故郷へと旅立つ馬車に乗る時に葬ってしまわねばならないのだ。そしてルウェリン伯爵に叶わぬ恋心を抱いて過ごしていたことは、これからもずっとほろ苦い秘密として胸の奥にしまわれ続ける……。

「アンヌ、お料理は気に入ってもらえたかしら?」

 パーティーも半ばを過ぎた頃、立食形式の食事を楽しんでいたアンヌに声をかけたのはエミリアだ。叔母も今日ばかりは編み物教室の仲間たちと久方ぶりの歓談に花を咲かせていて、警戒すべき相手もいないアンヌは自由にこの時間を楽しむことができた。誰もが彼女を友人のように温かく扱い接してくれる上、時折聞こえてくる子供たちの笑い声が凝り固まった心を和ませる。領地では自分で用意するというエミリアの手料理はどれも甲乙付け難く絶品で、結婚後は夫のジェレミーが若い頃の服を丸ごと処分したという話も納得できる味だ。

「とても美味しかったです。少し食べ過ぎてしまったかも」
「本当? 嬉しいわ」

 エミリア・ハイラントは3人も子供がいるとは思えないほど若々しく、アンヌはすぐ彼女に好感を持った。煌めく眸に喜びを表したエミリアは窓の外を示しながら続ける。

「アンヌ、よければこの後お庭に出てみない? この中はずいぶん暑いし、もう少ししたらダンスも始まるけれど、少し歩けばデザートのタルトくらいは入る余裕ができるかもしれないものね」

 指し示された先にはところどころに灯りがつけられ、手入れの行き届いた可愛らしい庭が広がっている。アンヌはその提案に賛同の意を返すと、エミリアが貸してくれたストールを肩にかけながら彼女の後について外に出た。

「叔母さまから王都に来るのは初めてだとお聞きしたけれど、ここでの生活は楽しめた?」

 柔らかな燭台の灯りが照らす小道を歩きながらエミリアがふいに尋ねる。この半年あまりの様々な出来事を思い出しながらアンヌは視線を落として答えた。

「……楽しかったと思います。でも私にはまだ早過ぎたかもしれません。どんな風に振る舞えばいいのか結局わからずじまいでしたので」
「そうかしら?」

 足元には赤や黄色に染まった木の葉がはらりはらりと舞い落ちて、涼しい秋の長い月夜を虫の声が静かに彩る。

「あなたは素敵な女性だわ、会ったばかりの私でもわかるくらい。そんなあなたを見つめていた男性もたくさんいたでしょうね。夜も眠れないほど、あなたのことを想っていた人が」

 まるでそんな人物がいることを知っているかのような口ぶりでエミリアはアンヌに語りかける。だが抜けない棘が刺さったままの心に、その言葉は辛い思い出を呼び覚ますばかりだ。

「そうであればいいんですが。でも私はそんな相手として見てもらえるほど自分が大人だとは思えません」
「そんなことはないわ。あなたは知らないだけよ、自分がどんなに――」

 エミリアがそう言いかけた時、2人は庭の奥に設けられた小さなベンチの前にさしかかった。暖かいオレンジ色の灯りが掲げられたそこへ座るよう手振りで示されたアンヌは腰を下ろし、エミリアもその隣に座ろうとして――ふと屋敷の方を振り返る。

「あら、テオドールが泣いてるのかしら? アンヌ、ごめんなさい。少しここで待っていてくれない? すぐに戻ってくるから」

 エミリアは出し抜けにそう言うともと来た道を走っていってしまい、返事をする暇もなかったアンヌはぽつんとその場に独り残った。彼女が再び戻ってくるまでどれほどかかるかはわからないが、アンヌは今しがた告げられた言葉を思い返しながら星の輝く夜空を仰ぐ……彼女自身が夜も眠れないほど想っていた、ずっと見つめていた相手に想いを馳せながら。

“……ルウェリン伯爵……”

 考えないようにしていたその名を心の中で呟けば、アンヌの眸はたちまち意思とは無関係にあふれる涙で滲む。本当は好きでたまらないからこそ、想いが実らぬ現実はそれだけに一層辛く苦しかった。今更自分に変えられることなど何1つありはしないのに、なぜそう思えばそう思うほどますますあの手の温かさを思い出してしまうのだろう。
 2人でワルツを踊った時のことはどんなことも全て思い出せる。声をかけられ、振り向いた先にいたのが彼だと気づいた瞬間、それまでの憂鬱な気持ちなど跡形もなく消え去ってしまったものだ。ずっと遠くから見ていた憧れの相手がこうして自分の前にいる。それどころか手に手を携え、こんなにも近くでアンヌの名前を呼んでくれる。想像力の限りを尽くして思い巡らせていた夢でさえ、あんなにも素晴らしい時間を描き出すことはついぞできなかったことだろう。ほのかなコロンの香りすらも感じられるほどに身を寄せた時、そのまま抱きしめてもらえる相手は世界で1番幸せなはずだ。それが自分ではないとこれ以上ないほどに思い知らされる出来事の後でも、彼に真心を捧げてもらえる相手を羨む思いは消えはしない。
 もしもう1度彼に逢えたら。ほんの僅かな時間でも2人きりになれたなら、この想いを打ち明けずに黙っていることなどもはやできはしないだろう。断られることがわかっていても、この恋に終わりを告げるのは他でもない想い人自身であってほしかった。そうでなければ乗り越えられない。“もしかしたら”……その言葉はあまりにも甘美で、苦しみながらも叶わぬ夢を見続けずにはいられないのだから。

「!」

 そんな彼女の耳に重なる落ち葉を踏みしめ近づいてくる足音が聞こえ、戻ってきたエミリアに怪しまれないようアンヌは何度も目を瞬かせる。しかし小道の先を振り向いたカラメル色の眸に映ったのは、そこにいるはずの小柄で愛らしいボーモント子爵夫人ではなかったのだ。

「……久しぶりだね、カッシング子爵令嬢」

 甘く響く低い声。それを聞いた途端にアンヌの身体はそれまであったはずの自由を失い、その場から立ち去り逃げ出すどころか足を踏み出すことさえできなくなる。彼女のすぐ傍に立っていたのは最も逢いたい人物であり、また同時に最も逢ってはいけない人物でもあるルウェリン伯爵だったのだから。