最初から前途多難なことはわかっていたのだから言い訳などはしたくない。しかし馬車がリッジウェイ伯爵邸の前でその車輪を停めた時、ウィリアムは今までに経験したことがないほどの緊張に襲われていた。門は閉ざされてこそいないとはいえ出迎えに出てくる者はおらず、独り石畳の上を悠々と歩いて大扉までやっては来たものの、これが開くことなどないのではないかという不安に一瞬だけ上げた手が止まる。

“……ここまで来て何を恐れることがあるというんだ。そうだろう、ウィリアム?”

 心中で自身を叱咤しつつ、威圧感のある扉を叩いても邸内からは何の反応もなかったが、自分からは絶対に退かないというウィリアムの決意は固かった。だが足が震えそうなほどの畏れを紛らわすためにもう1度戸を叩こうと上げた手は、分厚い樫の板に触れることなく宙を切って下ろされる。

「ようこそいらっしゃいませ、ルウェリン伯爵。奥様は奥の部屋にてお待ちです」

 軋んだ音を立てながら開いた扉の向こうで年配の執事はそう告げた。彼に先導されるがまま、ウィリアムは亡きリッジウェイ伯爵が遺した絵画も見事な廊下を行く。ところどころに飾られた花はブライトン夫人が生けたものか、あるいはその姪たるアンヌがどこかで手折ってきたものなのだろうか。
 正直なところ、ウィリアムはアンヌの叔母と対面するまでには少なくとも数日を要するだろうと予想していた。自身の評判は知っていたし、心優しい素直な娘の夫として真っ先に候補には挙がらないだろうこともよく承知している。だがここで踏み留まれなければそもそも時間を割く価値すらないと見做されてしまうだろう。アンヌ・ヴィルジニー・オーブリーという女性を自分が妻にと望んだ以上、その想いの深さを確かめるのはその家族にとって当たり前のことだ。門前払いをされたところで何度でも出直すつもりでいたし、婚約を許されるまでに出された条件はどんなものであれ呑むと心を決めてもいた。
 しかしさすがのウィリアムであっても結婚の申し込みなど初めてのことで、ブライトン夫人が待っているだろう部屋が見えてくると脈が早まらざるを得ない。その場にアンヌもいてくれたならと弱気なことを思わずにはいられないが、その誠実さが証明されるまでの間一切の接触を禁ずると言われたとしても、彼の側から敢えてそれに反論を申し立てるつもりはなかった。

「ルウェリン伯爵がお越しです」

 重々しい声で知らせた執事がしばしの間を置いて扉を開ける。歴代の伯爵がずらりと肖像画に納まっているような部屋を想像していたウィリアムは、それとは裏腹に陽射しも眩しい窓の傍に座ったブライトン夫人と、そのすぐ隣に立ってこちらを窺う恋しいアンヌの姿を見た。

「お待ちしていましたよ、伯爵」

 夫人は静かに声をかけると手振りで椅子に座るよう示す。一礼したウィリアムが勧められるままに彼女の向かいへ腰を下ろすと、屋敷のあるじは余計な前置きを置かずに話し合われるべき本題に入った。

「お話があるとおっしゃっていましたが、それはアンヌのことですね?」

 単刀直入な物言いに、ウィリアムは余計な小細工など通用しないことを悟る。

「そうです。私は姪御さんを……カッシング子爵令嬢をぜひとも私の妻として迎えたい。どうか彼女と私との婚約を許していただけませんでしょうか」

 回りくどい言い回しなど歓迎されない、その推測は当たっていただろう。だが彼がはっきりとそう告げたところで上品な老婦人は揺らがない。昨夜感情も露わに取り乱していた時とは違い、今日のブライトン夫人はまるで別人のようにその考えが読めなかった。
 ここまでウィリアムが想定していたことはどれもが悉く実現せず、思いもよらなかったことばかりが怒涛のように押し寄せている。1日のうちにここまで来られただけでも想像以上だというのに、最終的な目的であるアンヌとの結婚からはなぜか遠のいているようにも思えた。せめて1度だけでも恋人と目を合わせられれば勇気も湧いてこようというものだが、ひとたび視線を夫人から外せばもう2度と戻すことはできないような気がする。その警告はウィリアムの心のどこか深いところから発されており、見過ごせば彼はすぐにでもこの屋敷を出て行くことになるだろう。
 間違った選択は絶対にできない。アンヌと築く未来のために、ウィリアムは常に正しい答えを導かねばならなかった。

「伯爵、失礼ですが私はあなたが結婚に向いている方とはとても思えないのです。世間で語られている限り、あなたが来年の今頃もアンヌを想ってくださる可能性は極めて低いと言わざるを得ません」

 そんな彼の先手を取って、心臓を鷲掴みにするような言葉は淡々と夫人から紡がれた。だがそれは誰もが思うことであり、これに納得のいく答えを返せない限りは彼がいくらアンヌを特別だと言い張ったところで信憑性などないに近い。ウィリアムは息が詰まりそうな緊張の中、すぐ傍で彼を見つめているだろう存在を想いながら心を奮い立たせて言った。

「お言葉はごもっともです。確かに私は多くの女性と浮名を流し、凡そ真面目な交際を尊ぶ方々からは避けられて然るべき男でした。ですがそれを後悔するのは彼女たちに失礼ですし、それで得たものもあったことは嘘ではない」

 ブライトン夫人の眉が微かに寄る。だがウィリアムはそれに怯まず続けた。

「彼女たちは私が伴侶に求める資質をはっきりさせてくれました。外見や財産、享楽的な歓び……そういったものにしか興味を抱かない女性を私は心から愛しいと思うことができなかった。彼女たちの目に映っていたのは王都にいる時の私だけで、領地での生活についてなどは誰1人尋ねてこなかったのです」

 ルウェリン伯爵領は古今を問わず豊かな農作物の生産で有名だ。どの地域でどの作物が実るか、何年にどの病害虫が出たのか、現在の領主はそれらを幼い頃から今なお地道に学び続け、民と共に苦難を乗り越えてきたことなど王都では何ら噂にもならない。そんな泥臭い話よりも人は煌びやかな社交の話題を常に好む。しかしウィリアムが本当に探していたのは高価な宝石だけが似合う手ではなく、彼と共に土に触れることを厭わないような素朴な手の持ち主だったのだ。

「アンヌは美しい。他人の例に漏れず、私も最初は彼女の見目麗しさに思わず目を奪われました。ですが心の方が囚われたのはそれより少し後だったのかもしれません」

 その言葉をきっとアンヌも固唾を飲んで聞いてくれていることだろう。ハイラント家の庭では語り尽くせなかった想いを告げるには些か無粋だろうが、ウィリアムはそれでも続く打ち明け話を止めはしない。彼女への恋が本当の愛であると認めるに至った日の出来事は、何度思い出しても新たな愛しさをかき立てられるばかりなのだから。

「アンヌは領主の娘でありながら平民と同じ学校に通い、時には彼らの生家の作業を手伝うことさえあったそうですね。仔牛の出産に立ち会ったことのある令嬢など他にはきっといないでしょう。ですが……」

 それを彼女が話した相手のぽかんとした顔を思い出し、ウィリアムはつい笑い出しそうになるのを堪えて懐かしい感慨と共に告げた。

「それを嬉しそうに語るアンヌを見ていた時、私は彼女と生涯を共にしたいと心から強く思ったのです」

 そう言ったウィリアムを、ブライトン夫人は黙ったまま真っ直ぐに見つめていた。