「旦那さま、旦那さま!」

 ――それから1ヶ月余りが経ったその日、ルウェリン伯爵のカントリーハウスには若い執事の声が響いていた。

「今度は一体何だ、バレン」

 ウィリアムがうんざりしているのは去年代替わりしたこの執事がやかましいからではない。この屋敷に戻った時には既に1通目が届いており、それから3日と空けずに送られてきていたアンヌの手紙が途絶えてもう1週間になる。風邪でも引いて寝込んでいるのか? それとも毎日のようにこちらから送っている長い手紙に辟易してしまったのだろうか……? この秋の収穫高を記した帳簿に目を通して確認をしながらも、落ち込む気分を慰める名目でこれまでの手紙を読み返さずにはいられない。

『早くウィリアムさまにお逢いしたいです』

 彼女の手で綴られる優美な文字はそれだけで心が和むというのに、嬉しい言葉を書き連ねられては今すぐにでも逢いたくなってしまう。婚約を許されたあの日、さも待つことなど苦でないように嘯くのは彼をしてなお酷く難しかった。だがいい歳をしてたった数ヶ月さえ待てないとわかれば結婚の許可も撤回されかねない。領主としての義務もほどほどに婚約者の元へ詰めかけるようなことがあれば、せっかく認めてくれたアンヌの両親どころか彼女自身も愛想を尽かしてしまうだろう。
 だが新しい手紙が受け取れないことによる禁断症状は日増しに強くなり、ウィリアムの心は愛しい恋人に逢いたい想いを抑えきれない――それも触れるだけのキスまでしかしていないとなればその情熱は補ってなお余りある。
 いつもきちんと整頓されていた机は今や本と帳簿、紙ばさみに挟まれた書類に始まり書きかけの便箋に至るまでがそこかしこに散乱した状態だ。その上ただでさえいらいらさせられてしまうような細かい数字の作業をしていたとなれば、さも大変なことが起こったかのような呼び声にウィリアムがそっけない返事をしたことに対しても同情の余地はあったかもしれない。

「お客さまがいらしてます。お約束のない方ですが」
「予定にない客は取り次ぐなと言ってあるだろう。今は忙しいんだ、また出直してもらえ」
「ですがその、お客さまは女の方で」
「女?」

 一瞬ヴァネッサあたりが執念で乗り込んできたのかと鳩尾が冷たくなったが、執事のバレンはどこか興奮したように何度も頷きながら答えた。

「とても綺麗な方ですよ。寒いところの人なのか色も白くて、ぱっちりした目が可愛らしい……」

 ウィリアムは話半分にそれを聞きながら紙をめくっていた手をはたと止める。その描写は少なくとも天敵たるヴァネッサには当てはまらない。そして寒い地方と言われて今この時その心に浮かぶ場所はただ1つだ。

「その方のお名前ですが、アンヌ・ヴィルジニー・オーブリー様とおっしゃるそうです」
「何でそれをすぐに言わないんだ!」

 ウィリアムは机に帳簿を叩きつけんばかりの勢いですぐさま立ち上がり、書斎の扉の前に立っているバレンを押しのけるように部屋を飛び出す。主人の婚約者も覚えていない執事をどうしてくれようと思いながら、彼は階段を3段飛びに駆け下りてまっしぐらに玄関ホールへと向かった。無警戒にも開け放たれたままの扉からは冷たい外の空気が流れ込んでくるが、その向こうに麗しい横顔が見えた瞬間寒さなどどこかへ消えてしまう。

「――アンヌ!」

 その声に振り向いた彼女の目には弾けるような喜びが輝き、ウィリアムが勢いよくその身体を抱き上げてホールを回る間も微笑みが絶やされることはなかった。

「ウィリアムさま、お久しぶりです」
「アンヌ、一体どうしたんだ? こうして君を抱きしめられるということはこれは夢じゃないということだが、それにしても――」

 逢いたい相手が向こうの方から自分の元へとやって来てくれるなど、あまりにこちらに都合が良すぎて疑わずにはいられない。だがそれを聞いたアンヌは一瞬きょとんとした表情を見せた後、頬に落ちた幾筋かの髪をかき上げながら若干不安そうに尋ねる。

「もしかして、父からの手紙はまだご覧になっていらっしゃいませんか?」
「……手紙?」

 この状況から察するに、彼女の言うそれが領地に戻ってすぐに届いた婚約書類でないことは確かだろう。ふと嫌な予感がしたウィリアムはアンヌを下ろすともう1度書斎へ駆け上がり、乱雑な机の上に封の切られていない手紙が1通紛れていたのを見つける。消印は2週間近く前のものであり、差出人の名はマティアス・リーベルト・オーブリー……近々義理の父となる相手だ。慌てて中身に目を通したウィリアムは驚愕のあまり段差を転げ落ちそうになりながら、恋人が待っている玄関先へと急ぎ慌てて舞い戻る。

「……読んでいただけたようですね。ウィリアムさまのお返事も待たず、早まってしまってごめんなさい」

 申し訳なさそうにそう告げたアンヌを、ウィリアムは今度こそ信じられない思いで見つめながら尋ねた。

「いや、私の不注意で返事が書けなかっただけだから君は何も悪くない。だが……ご両親は本当に君が私の元で新たな年を迎えることを許してくれたのか?」

 社交界からは縁遠いカッシング子爵夫妻はウィリアムの艶めいた話には疎く、むしろその領主としての仕事ぶりを知っていたが故に娘との結婚を認めるのは早かった。持参金も平均を少し上回るほどの額を先方から提示され、いつかアンヌが必要になった時に使ってほしいという旨が几帳面な字でしたためられていたほどだ。
 それだけ娘を大切にしている思いが伝わってくる両親だからこそ、今しがた目にした手紙に書いてあったことは俄かには信じ難かった。ウィリアム恋しさに憂鬱になるばかりで落ち込む娘を見るのが忍びなく、迷惑でなければ年が明けるまでの間アマースト家に滞在を許してはもらえないかなどと。

「突然押しかけてしまって本当にごめんなさい。ご迷惑であれば今すぐ帰ります。でも……どうしてもウィリアムさまに一目お逢いしたくて、私……」

 悲しそうな顔でそう言われずとも追い返すつもりなどなかったが、およそ5日を要するカッシング子爵領からの旅は手紙の空白期間をぴったりと埋めてくれる。外に止まった馬車には急いでまとめたのだろういくつかの小さな荷物があり、そして当然ながらお目付役を務める若い侍女がいたが、これからしばらく同じ屋根の下でアンヌが寝食を共にする……そう考えただけでウィリアムの頭は真っ白になってしまいそうだった。

「お傍にいても構いませんか……?」

 カラメル色の眸は不安に揺れながらも何も言わない彼を見上げる。そして苦しいほどの愛しさに目を細めたウィリアムは腕を広げて答えた。

「もちろんさ。傍にいてくれ、アンヌ。私も君に逢いたかった……本当に逢いたかったんだ。君が来てくれなければ今頃は私が君の家の扉を叩いていたかもしれない」

 掠れた声は計らずも熱っぽい響きを伴って上ずったが、花が咲き誇るような笑顔を浮かべたアンヌは彼の胸へと躊躇なく飛び込んできてくれる。ウィリアムもまたそんな彼女を想いの限りに抱きしめることを自らに許し、見つめ合うお互いの距離が近づいてきたところで聞こえたのはアンヌの囁きだ。

「ウィリアムさま……ずっとお慕いしています」

 1ヶ月ぶりに交わした恋人との甘い口づけは、唇が触れ合う寸前に告げられたその言葉によって初めての深いキスへと変わった。