だがアンヌがウィリアムの元に現れるという夢が叶うかもしれない暇などなかった。聖火祭の日は食卓に乗り切らないほどの食事でそれどころではなかったし、翌日は1年の最後を締め括るためには欠かすことのできない聖歌祭がある。夜を徹して聖歌を奏でる儀式に列席を求められる立場であれば、空が白む頃に寝室へ戻ったところでそんなゆとりなど持てるはずもない。これまでルウェリン伯爵と言えばスマートな振る舞いの代名詞だったが、本気の恋に落ちてしまえばそんな評判も形無しだ。彼が自らの一言でいよいよ自身を限界寸前まで追い込んでいるなどと、疑わずに信じてくれる相手はハイラント夫妻くらいのものだ。
 “私の部屋を訪ねてほしい”――そんな言葉は当然ながら告げるべきではなかったのだろう。少なくとも褒め称えられないものであることは誰に尋ねずともはっきりしている。だが幸せそうに人々を見つめるアンヌを前にしたウィリアムは、愛の言葉を口にするだけでは飽き足らずそれをも伝えずにはいられなかった。きっと呆れられてしまったのかもしれないと相手の反応を恐れつつも、それまでと同じように接してくれる彼女の態度に心のどこかで期待してしまう。そんなことはアンヌの性格を考えてもあり得ないことだとわかっているのに、もしかしたらという儚い望みは頭から離れないままだ。
 年が明けたその日は新年を祝う聖香祭という名の行事があり、ウィリアムは昨晩遅くまで共に聖歌祭に出ていたアンヌと遅い朝食を済ませると、魔を祓うと言われる特別な香を焚いて今年1年の幸福を願った。この土地ではあと2日に渡って古い祭りを続けるが、カッシング子爵領を含め大多数の地域ではその日で一連の伝統祭事が終わる。焚いた香の薫りも故郷とは違うと興味深そうに語る彼女は、その様に見惚れるウィリアムの視線に気づくと優しく笑ってこう言った。

「このお香の方が私の知っているものより柔らかくて甘い薫りがしますね。今まではこれでお祭りも終わると思うとどこか寂しい気持ちになったものですが、ウィリアムさまのところならまだ続くと聞いて楽しみにしていたんです。明日からのお祭りを経験するのはもちろん初めてのことなので、故郷に帰ったらきっとたくさんの人が私の話を聞きにやって来るはずですよ」

 その途端に反応する彼の心臓は頭の中よりもずっと素直だ。せっかく愛しい恋人がここまで逢いにやって来てくれたのだから、自分の寝台にその姿がないことなど一体何だと言うのだろう。最後の祭りが終われば彼女はついに実家へ帰ってしまう。そうすれば今度こそ結婚式の日までは逢えなくなってしまうというのに、余計な悩みで限りある時間を消費するほど無駄なこともない。ウィリアムはそう結論づけると蜂蜜色の髪に触れ、自然と口元を綻ばせながらその目を細めて彼女に言った。

「そう言ってくれると私も嬉しいな。今日は皆でのんびり過ごして、明日は朝から聖花祭のために開かれている花市を見に行こう。君のために1番綺麗な花輪を贈ると約束するよ」

 冬の寒さがまだそこまで厳しいものではなかった昔の時代、この国では新たな年の幕開けを祝って花輪を贈る習慣があった。ルウェリン伯爵領のように気候に恵まれていればその伝統が残る場所もあるが、ほとんど廃れてしまったこの祭りでは意中の相手に花輪を贈ることで求婚に代えていたこともあったという。それを知ってか知らずか想い人はウィリアムの言葉を受けて嬉しそうに微笑み、彼は恋人の可憐な姿を目にして視線を逸らすことができなかった。
 翌朝、彼はアンヌとその侍女を連れて既に混み合う花市を訪れる。威勢の良い売り子たちの呼びかけにしばしば足を止めつつも、ウィリアムが見ているのは恋人が気にいるかどうかという1点だけだ。そして大半の店を通り過ぎた頃にその目がある花の上で留まった時、贈るべき一品に安堵した彼はその先に視線を移して僅かに驚く。

「ウィリアムさま、この花をご存知ですか?」

 店先に並ぶ花冠を形作っているのは山で摘んできたような白い花で、周りの店が盛んに売り上げている鮮やかな色合いのものとは趣が違う。しかしアンヌは楽しげに振り向くと花輪を指差しながらウィリアムに尋ね、首を縦に振れない彼に微笑むと懐かしそうな声で言った。

「これは私の故郷でよく見るものです。小さい頃はいつも首飾りにしていましたが、そのままにしておくと好物なのか山羊が来て食べてしまうんですよ。この花を持っていると何頭も後ろを付いてくるのが楽しくて、抱えきれないほど摘んでしまっては怒られたこともありました」

 その瞬間、緑の草がそよぐ野を歩く白い花の冠を被いた少女、そしてその後を列になって続く仔山羊たちの姿がウィリアムの頭に浮かぶ。純真無垢な幼いアンヌはどれほど愛らしかったことだろう。彼はもはや他の店を見回る気にはとてもなれず、老いた店主に代金を払うと同じ花輪を2つ買った。

「これを君に。そしてできれば君からも私に同じものをくれないか」
「!」

 しばし目を丸くした彼女がとろけるように優しいまなざしでウィリアムを見つめ、嬉しそうに花輪を載せてくれる喜びは想像したよりも遥かに大きい。2人からの花輪をつけたマリーがこちらをしっかり見ている中でも、素朴な花冠をアンヌに贈った彼はそのままキスをせずにはいられなかった。今回だけは見逃すと肩を竦めるお目付役に感謝しつつ、彼は屋敷の者たちへ贈るたくさんの花で馬車をいっぱいにしながら帰路につく。だが赤や紫、ピンクや黄色といった花々に囲まれていても、蜂蜜色の髪を飾る白い花の美しさが劣るということはない。
 自分1人ならば気づきもせずに通り過ぎていただろう店のことを思い出しながら、ウィリアムはその日の夜も恋人を想っては手にした花輪を眺めていた。アンヌを花に例えればきっとこんな風だろうと思わせる、小さくも清らかな純白の花弁の何と愛おしいことか。

“アンヌ……”

 彼女といると身体は飢えても魂はこよなく満たされる。だがその渇きもあともう少しだけ待てばこの先ずっと癒されるのだから、アンヌがこうして傍にいてくれる幸福にもっと目を向けるべきだ。こんなに満ち足りた気持ちにさせてくれる相手は1人だけだとわかっているのに、そんな彼女がまだ望まないことを強いる真似などしたくはない。それでもアンヌがこの部屋の扉を叩いてくれることがあったなら、ウィリアムはきっと指一本触れずに彼女を帰すことはできないはずだ。冴えた真冬の夜空に幾多の星が輝き続ける限り、アンヌの耳にいつまでも愛を囁かずにはいられないのだろうから。
 それが結婚式の夜だと言うならそれはそれで構わない。ウェディングドレスに身を包んだ彼女を名実共に妻として、待ち侘びた分だけ長く愛を交わすのもこよなく待ち遠しいものだ。ここまで来ればもう耐えきれないなどと弱音を吐くこともない以上、いつか必ずやって来るその瞬間を最高の形で実現したい。ウィリアムと愛し合うことに喜びを感じてもらいたいと思えば思うほど、余計なプレッシャーなどかけずに済むならそれが1番いいことに変わりはないだろう。
 アンヌの笑顔を何よりも愛しく思うウィリアムにとって、最後の祭事が催される前夜に成した決意は固かった。それを瞬く間に揺るがす出来事がそのすぐ後に待っているなどと、その時の彼はほんの少しも考えたことなどなかったのだから。