「――やっと2人きりになれたな」

 うんざりしながらそう言うウィリアムの腕には白いドレスの麗しい花嫁がいて、ただでさえ愛らしい顔に微笑みをたたえながら彼を優しく見上げている。

「人生で1番大切な日だというのに、まさか自分の両親が最大の障害になるとは思いもしなかったよ」
「ウィリアムさま、そんなことはおっしゃらないで。お義父さまもお義母さまもとてもよくしてくださったんですから」
「そうは言うが、君の隣に行こうとする私をまるで悪魔か何かのように追い払っていたんだぞ? 今さっきだって君の護衛を買って出かねない勢いだった」

 ルウェリン伯爵ウィリアム・クリストフェル・アマーストとカッシング子爵令嬢アンヌ・ヴィルジニー・オーブリーの結婚式はよく晴れた春の日に執り行われ、2人の両親を始めリッジウェイ伯爵夫人、ボーモント子爵夫妻など近しい者たちのみを招いたその式は絢爛豪華ではなかったにせよ、訪れた誰もにとって思い出深いものとなった。結婚の宣誓をし、婚姻を証明する書類に署名を記して誓いの口づけを交わした後も、遥々やって来たアンヌの友人たちは山岳の民族衣装を纏って踊りを披露し、ジェレミーとエミリアの子供たちは籠いっぱいに集めた祝福の花びらで辺りを鮮やかな色に染める。料理人がここぞとばかりに腕をふるった大皿の数々は空になってもまた別のものが引っ切りなしに並べられ、テーブルの上の賑わいは夜になっても途絶えることがない。
 花嫁の両親は旅の疲れも見せずに1人娘の晴れ姿を見守り、その夫となったウィリアムが恐縮するほど彼女を頼むと告げていた。一方で何年かぶりにこの地へ戻ってきた前ルウェリン伯爵夫妻こと花婿の両親は、ようやく身を固めた息子を他所にアンヌを一目見るなり狂喜せんばかりで、下にも置かぬもてなしどころかどちらの親なのかわからないほどの有り様だった。2人が昔から娘をほしがっていたことをようやく思い出した頃、ウィリアムはもはや自分の花嫁に近づくことさえできずに歯痒い思いをさせられたものだ。
 両親がアマースト家の新たな一員を気に入ってくれたことは素直に嬉しい。だがアンヌは他ならぬウィリアムの妻としてこの場で祝われているのであり、彼女の両親からもこの結婚を正式に認められた身でありながら、なぜ自分の父母からお前ではアンヌに相応しくないなどと言われなければならないのだろう。あまりの言われように思わず口を噤んだ息子の胸中など気にもせず、その腕から花嫁を連れ出した2人は喜びに沸く参列者の輪の中へとアンヌを連れて混じっていく。そんな両親を唖然としながら見ていたウィリアムの肩をぽんぽんと叩き、ほろ酔い加減のジェレミーはこよなく面白そうに笑って言った――“相手が悪い、諦めろ”と。

「それとも君は私ほどこの日を待っていてはくれなかったのかな。私は寝ても覚めても君のことばかり考えて過ごしていたというのに」
「まあ……ウィリアムさま、そんな言われ方は心外です!」

 慌ただしかった1日の回想を終え、思わず不満の言葉を漏らした彼にたちまち憤慨混じりの声が上がる。だがアンヌが送ってくれた手紙の数を鑑みればその憤りも当たり前のことで、彼女の想いを疑う気などウィリアムには最初からありはしない。ウェディングドレスの仮縫いが終わったこと、領主の娘の婚約を祝す菓子が子爵領一帯に配られたこと、友人たちと共に結婚に際して両親に贈る刺繍を仕上げたこと、そして新たな家族となるウィリアムの両親のために手織りのタペストリーを作ったこと……そしてそんな報告が霞みそうなほどの愛の言葉の数々は、書斎の机の引き出しの中、彼だけの幸せな秘密の1つとして鍵をかけた箱の中にしまってある。これからどれだけの時間が経とうと、それらを読み返す時に心を満たす喜びが色褪せることなど決してない。

「冗談だよ。だが私はそれほど君に逢いたかった……こうしてもう1度君を抱きしめたかった。そして」

 階段を上がり、長い廊下を真っ直ぐに通り過ぎた先で、花嫁を抱いたウィリアムはそのまま思い出の部屋の扉を開ける。

「再び君とここで過ごせる時をあれからずっと待っていたんだ」

 2人が初めて身体を重ねたあの夜、外がほのかに白む頃までウィリアムはアンヌを離さなかった。しようと思えば何度でも彼女を抱くことはできたに違いないが、初めての経験を終えたばかりの恋人に無理をさせたくはなかったのだ。2人は時折まどろみながらもお互いの肌に腕を回し、その温もりを確かめ合いながらたくさんの話を語り合った。一緒に訪れたいたくさんの街、観に行きたい演劇やコンサート、オペラ……そしていずれは持ちたい子供の数に至るまでどれほど話しても話題は尽きず、想いが成就した喜びはそれぞれのまなざしにはっきりと表れている。すぐにまた別れがやって来るからこそ恋人たちはしっかりと抱き合い、数ヶ月の別離を耐え抜く勇気を相手からの口づけで養った。
 たった1度肌を合わせただけだというのに、2人は魂のどこか深いところで1つに溶け合ってしまったのだろうか。その胸が痛むのは何も遠くに離れようという時だけではなく、それぞれの部屋に戻らねばならない時でさえも感じる寂しさは同じほどに強い。脱がせた衣服を1枚ずつ身につけるアンヌは一線を超えてなお結ばれる前よりも更に美しく感じられたが、部屋を出て行く姿を見送る時には心が引き裂かれるような切なさを感じた。もしあの時その手を離さずにいられたならば、彼は次に月が昇る頃まで恋人と愛を語り合って過ごしたに違いない。彼女が最後に贈ってくれたキスにさえ、まるでこれから夜が始まるかのように深く応えずにはいられなかったのだから。
 ――その時から今日この日まで、自ら望まずとも女性の方からベッドに列を成すと謳われた色男、ルウェリン伯爵は愛しい婚約者のことだけを一心に想い続けてきた。結婚式の招待状を送り、多くの客を迎える準備に追われ、今はアンヌの指に煌めいている指輪の出来を逐一確かめに行った日々は終わる。これから先に待っている幸福な未来の日々を目前に、その胸中を駆け巡る感慨がいかほどのものかは敢えて説明するまでもない。

「もう待つのは終わりだよ。見送る前に言った通り、これからはずっと君を離さない」
「ウィリアムさま……」
「君を愛してる。2人で幸せになろう、アンヌ」
「はい……はい、ウィリアムさま」

 宴の余韻が今なお残る階下の賑わいとは違い、当主の自室があるこの一角は夜ともなれば静かなものだ。部屋の窓からは明るい月の光が伯爵夫妻の寝台を照らし、ウィリアムは1度軽く唇を重ね合わせてからその上へそっと彼女を下ろす。想いの丈を込めた彼の言葉に感極まったアンヌの涙が零れ、それを唇で拭いながらも細い背に回された手は真珠のボタンを外していった。
 この一見不釣り合いな2人の結婚を世間はあれこれと詮索したが、ルウェリン伯爵が王都よりもカッシング子爵領に足繁く向かうようになったことと、どこへ行くにも妻のアンヌをひと時たりとも離さぬことで、今やその名はボーモント子爵に並ぶ愛妻家として人々の口に上る。若かりし日のウィリアムを知る者には俄かに信じ難いそんな噂も、幸せそうに伴侶を見つめる彼の姿を一目見れば、その微笑ましさに誰もが心を温かくしたということだ。