「――お前、自分が何を言っているかわかっているのか?」

 殺し屋がしばしの沈黙を経た後で若干不機嫌そうに女に問うと、彼女は声こそ立てはしないがはっきりとその首を縦に振った。

「せっかく生き残れたのに死にたいのか。お前、自分がどれだけ恵まれているか考えたことは?」
「私は生きていてはいけないんです。私がいなくなれば、何もかも……」
「シルヴィオのことはどうする?」
「……っ!?」

 だが男がその名を出した途端、激しい怯えが娘の緑の眸を一瞬で曇らせる。

「どうしてあの方を――あの方は私がここにいることを知っているんですか!?」
「…………」
「教えてください、あの方には私なんて最初からいなかったと思っていただいた方がいいんです」

 どうやらかなり複雑な事情があるようだと思いながらも、殺し屋は内ポケットから潰れた紙の箱を取り出し1本の煙草に火をつける。そしてほろ苦い煙が手狭な部屋の中いっぱいに満ちる頃、男はようやく黙ったまま彼を待っている女の質問に答えた。

「俺以外の誰も、お前がまだこの世に生きていることは知らん。だが俺に殺してくれと言うのはお門違いだな。こういう生業をしていても、俺は仕事以外で人殺しをするほど酔狂な性質たちじゃないんでね」

 そう言って彼はふっと煙草の煙を吐き出す。深く物事を考えたい時も、逆に何もかも忘れてしまいたいような時も、この乾いた草の束はいつだって彼にそうすることを許してくれる。

「死にたければここを出てから好きなように死んでくれ。自分で死ねるほどの勇気もないなら他人に依頼するのも結構だが、俺に頼むなら金が要る。そしてお前には先立つものがない」

 人の命の価値、それを金銭で量ることなど本来ならばしようと思ったところでできようもない。だがそれでも報酬を要求すること、それは男が今日1日を食い繋ぐために殺し屋という肩書きを選んだ証だ。他人の命を糧に生きる、その呆れるほどに矛盾した生き様。狂った前提を認めた上で成り立つ彼の生活は、自分で定めたルールを犯せばたちまち崩れ去ってしまうだろう。

「……あなたは……」
「…………」
「あなたは、なぜ私を生かしておいたのですか?」

 倦み疲れたような表情の女は呟くような声で男に尋ねる。殺し屋は短くなるまで吸った煙草を端の欠けた皿の上に押し付けると、彼の半分も生きていない娘の双眸を見透かすように覗き込んだ。その目には凄惨な場面を経験した者だけが宿す暗い影が焼き付いている。

「俺は侮られるのが嫌いでね。お前をそのまま放っておかなかったのは単に意趣返しのつもりだった」

 新たにもう1本煙草を取り出し、それを咥えながら男は答えた。次いで湿気ったマッチに火を点けた彼は燃え殻を無造作に皿に投げ、臓腑を煙で満たした後に再び薄い唇を開く。

「誰が1番早く殺せるか、そんな風にけしかけられるのは真っ平だ。俺はこれを商売にしている。仕事だ、遊びじゃない。真面目にやるさ。それは農家が畑を耕すのと、パン屋がパンを焼くのと同じことだ。金持ちの道楽のためにわざわざ見世物を演じるつもりはない」

 遠くの国で続いているという戦争、その最中に相手の兵士を殺すのは褒め称えられることであっても、仕事として人殺しを請け負うことは他ならぬ罪にしかなり得ない。だからといって殺し屋が今更それを止めようとすることもないし、20年以上歩んできたその道を後悔するようなこともない。男が自らの力で生きていくためにこの仕事は必要なものだった。だからこそこんな風に馬鹿にされるのは自尊心を酷く傷つけるのだ。

「まあお前の話からすると俺の依頼人が複数股にかけていたかは怪しいが。何人もの人間がお前1人を狙う理由が――ありそうだからな」
「!」

 びくりと肩を震わせた女の頬に柔らかそうな髪が落ちる。手を伸ばしてそれをかき上げてやりたくなる衝動に驚きながら、男は彼女の躊躇いがちな唇が何かを紡ぎ出すのを待っていた。

「……私は……」

 ぽつりと発せられた言葉の続きを彼は無言のままそれとなく促す。

「私はデミチェリス家の荘園に勤めていました。小さな頃から、親と一緒に。私にとってそれは当然のことで、他の仕事を……考えようとしたこともありませんでした」

 デミチェリス家はこの国有数の権力者として数えられる大地主の一族で、この地方のみならず各地に広大な荘園をいくつも持っている。直接的であれ間接的であれ、彼の家に雇われて働いている者は数多い。女のように家族ごと、あるいは一族代々雇われているような者も決して珍しくはなかった。

「私たちはお屋敷の中で仕事ができるほどの身分の出ではなかったので、荘園で作っている果物の手入れを主に任されていました。私も外の空気が好きでしたし、その暮らしに何も不満なんてなかったんです。でも――」

 世が世なら王侯貴族にも等しい力を持っているデミチェリス家、その本家の嫡男がある日彼女の勤める荘園を視察にやって来た。彼にとってそれは形骸化した退屈な義務の1つに過ぎず、それはその時も同じはずだった……女を、ルーチェを目にするまでは。

「ちょっと待て。お前――シルヴィオというのは、まさか」

 そこで殺し屋は思わず口を挟まずにはいられなかった。どこにでもある平凡な名前、だがそれがデミチェリスという家名と結びつく時に示される人物はたった1人だ。

「……シルヴィオ様は私を大変お気に召されました。その日のうちに家にはデミチェリスの使いの方がやって来て、私をあの方のところへ連れて行く代わりに途方もないお金が差し出されました。でも……両親は断りました。それだけはどうしてもできないと、何度も地面に頭をつけながらお帰りいただいたことを覚えています」

 女の両親は娘が辿る不幸な結末を悟っていたのだろう。身分の違う男に激しく愛されれば愛されるほど、彼女は見るもおぞましい周囲の憎悪に害されていく他ないのだから。

「それがいけなかったのかもしれません。その時から――あの方は形振りを構わなくなってしまわれました。何度もお手紙をいただきましたし、あらゆるものが毎日のようにデミチェリスの名前で贈られてきました。時にはシルヴィオ様ご本人が直々に私のところへやって来て、私をどれほど愛しているのかを真剣にお話しになりました。ご両親や婚約者の方の諌める言葉もお聞きになりません。そして周囲の無理解にますます頑なになるばかりだったあの方はついに、私と結婚できないのならデミチェリス家から縁を切って出て行くとまでおっしゃったのです」

 裏の世界で生きる殺し屋とてデミチェリスの嫡男くらいは知っていて、女よりも少しばかり年長の――彼にとってはまだ青二才でしかないことも知っている。後ろ盾となる家を出たら最後、独りで生きていくことさえできはしないはずだ。そして話し始めてから先というもの、娘がシルヴィオに対して何ら好意のある素振りを見せないことにも男はまた気づいていた。この話に女の意思など最初から無関係なのだ。愚かな男に見初める隙を与えてしまったことだけが、彼女の唯一にして決定的な不覚であったと言ってもいいだろう。

「その頃にはもう私たち家族は荘園で働くのを許されなくなっていました。一緒に働いていた他の人たちからも、親しくしていた周りの人たちからも、受け入れてもらえなくなっていたんです。私たちは――逃げるようにその町を出て行くことしかできませんでした」