「……ベラ」
「何よ、起きてたの?」
「ここにルーチェという女が訪ねて来たら雇ってやってくれないか」

 心許ない灯りが幻のように辺りを照らす部屋の中、微かな衣擦れの音を立てたイザベラがベッドの傍までやってくる。そして咥えたままの煙管を離して細く煙をたなびかせると、女は訝しげな目で意外な言葉を発した男を見下ろした。

「あんたらしくないわねえ。どういう風の吹き回し? 丁度1人身請けられちゃったところだけど、見てみるまではいいとも何とも言えないわ」

 相手によっては最高の所作さえ容易に演じる伝説の娼婦も、昔馴染みの客の前では偽ることなくその素を見せる。

「ノア、言っておくけどうちはあんたのお手つきを引き取るために商売してるんじゃないんだからね」
「それなら心配はいらん」
「?」

 首を傾げたイザベラにくるりと背を向け、寝返りを打った殺し屋は静かに告げる。

「あの女はまだ処女だ」

 今度こそ女主人はその目を見張って返す言葉を失った。
 ――その頃、あるじが不在の部屋に残った娘は虚ろな目で天井を見つめていた。静寂とは程遠い地区だというのに、極度に疲労したルーチェの耳にはどんな騒音も聞こえはしない。

『女、お前を助けてやる』

 それは死の間際の幻聴だと思っていた。もしそうではないと知っていたなら、最期の力を振り絞ってでもこのまま死なせてほしいと頼んだだろうに。全てを失った女にとって生きることはもはや苦痛でしかなかった。自ら命を絶っていたならもっと早く楽になれたかもしれないが、彼女の親は決して娘が自身を傷つけることを許さなかった。
 ルーチェの家はどこにでもある、信仰には篤いが豊かではない平凡で純朴な一家だった。そんな貧しい暮らしの中にもささやかな幸福に感謝を捧げ、身の程を弁えない大それた望みなど抱いたことはなかったのだ。それなのに……。

『君、名前は?』

 住む世界の違う男が現れたあの日、ルーチェの全ては変わってしまった。

『お前たちの娘がシルヴィオ様の目に留まった。取っておけ、娘の代金としてな』

 小さな自尊心さえ壊され、

『近寄らないでくれ。本家の方に睨まれでもしたらたまらないんだよ』

 住み慣れた家も故郷も追われ、

『男を狂わせる妖婦だ、いいご身分だよ』

 謂れのない脅迫や中傷に苦しみ、

『お前の代わりに誰かが死ぬことになるぞ』

 ずっと支えてくれていた両親も失い、

『女は手応えがねえな。楽な仕事だったぜ』

 彼女自身の命も奪われ――それでも死にきれなかった女は、独りになった。
 なぜこんな目に遭わなければならなかったのだろう。シルヴィオが本気だと気づいた時から拒絶の意思は示していたのに、そんな言葉を聞き入れるつもりなど彼には端からなかったように思える。デミチェリス一族の後継者として何不自由なく生きてきた男に、彼の望み通りにならないものがあるという発想など存在しなかった。シルヴィオは本気で信じていた……ルーチェが自分を拒む理由は彼を愛していないからではなく、身分の低い彼女と結ばれることでシルヴィオが批難を被ることをこそ恐れているからだと。

『ルーチェ、愛してる。恐がらなくていいんだ。僕には君しかいない――誰が邪魔をしようと、僕は絶対に君を離さない』

 偏執的な愛を向ける男には説得など意味を持たなかった。

「……どうして……」

 誰にともなく呟いたところで当然返事など返ってはこない。それでもそう問わずにはいられないほどの理不尽さにルーチェは涙する。

『お前の人生を破滅させた奴らに復讐したいとは思わないのか? なぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないんだと、少しでも考えたことはないのか』

 苦難に満ちた世界へ彼女を呼び戻してしまった黒髪の男。死こそが救いだった女にとって、彼の行いは確かに胸を刺し貫く以上の拷問だったかもしれない。だが自身を生かしておこうとする理由をルーチェは理解できなかった。今や依頼人に一矢報いるためには複雑すぎる事情があると了解しながら、それでもその足で立ち上がるように促す真意はどこにあるのだろうか。

『お前は、女だ』

 低く掠れた男の声、身体を内側から撫でるようなその響きに続いて与えられたもの。異性に淡い好意を抱いたことさえ片手で足りるような娘にとって、突然のそれは傷の痛みも忘れるほどの驚きをもたらした。その身の奥に封じられた何かを呼び覚まそうとでもするかのような、熱く、深く、身も心も彼の色に染め上げる煙草の薫りの口づけ。
 何も持たない女でも、その身を使えば今日明日の日銭を手にすることはできるだろう。だがそうして生きるためには覚悟がいる――今まで小さな世界で同じ日常が続くと信じて疑わなかった者には特に。どこの誰かも知らない相手に身体を開いて糧を得る、殺し屋が彼女に言わんとしたのはまさしくそういう生き方だ。そして選べることのできる道もまた事実としてはそれしかなかった。
 ルーチェ・フェレイラという女は死に、よく似た娼婦が生き残る。だが今この時決断を迫られているのはもっと根本的なことだ。即ちこのまま死ぬのか、それとも生きるのかという。

“生きたところで今までと同じ生活なんてできない。でも……”

 このまま死ぬことも納得はできなかった。本当は何もかも、最初から受け入れられることなど何1つありはしなかった。勝手な理屈で跡形もなく踏み躙られ終わりを告げた彼女の人生、だがそんなことをしでかす権利が誰にあると言うのだろう? そんなものはありはしない。他人の未来を奪う権利など誰にもありはしないのに。
 ルーチェは悲しみと、そして激しい怒りが尽きず込み上げてくるのを感じた。だが殺し屋が彼の流儀で示した“復讐”などには興味がない。シルヴィオの名前もその存在も、できることなら欠片も記憶に残すことなく完全に忘れ去ってしまいたいのだから。
 彼女が復讐を願うのならば必ずしも相手は必要ない。運命に逆らい生き延びることで初めて成される自由という報復、それを実現できるこれ以上ない機会がルーチェの元に巡ってきた。後は覚悟を決めるだけだ。想像したことさえなかった世界へと飛び込んでいくに足りる勇気が、この意志を貫くだけの心の強さが、自身の内にあるということを固く信じるだけだった。
 あまりにも急激な変化を強いられてもまごついているような時間はない。迷い、悩み、後悔するのは生きていれば後からいくらでもできる。命を絶つことはいつでもできるが、生きることは今しかできなかった。そして――女は自ら選んだ。

「おはようございます」

 部屋の主が帰ってきたのは既に陽も高い翌日の昼前だった。男が無言で扉を閉めれば途端に夜の女の香りが漂い、昨夜この場を出てからの彼の居場所を無言のうちに伝えてくる。昨日までのルーチェならばそれに嫌悪感を抱いていたかもしれない。だが、今はもう違う。

「もうご迷惑はおかけしませんと言いましたが……最後に1つだけお願いがあります」

 ノアは帰宅するなり彼女のその目でルーチェが選んだ道を知った。酷く動揺して涙を流し、運命に翻弄されるばかりだった娘の面影は既になくなっている。緑の眸に宿るのは決意だ。それも、果てしなく強い。

「言ってみろ」

 その手を伸ばせば届きそうな距離で男はただ一言そう告げる。それに小さく頷いた女は真っ直ぐ彼を見つめて言った。

「あなたが今までいらした娼館の場所をどうか私に教えてください」