一概に娼婦と呼ばれる者にも大小様々な区別があり、路上で男の袖を引いては一儀に及ぶような者もいれば、下手な宝石より一晩の逢瀬が高くつく類の者もいる。イザベラの娼館で働く女たちは後者に属するものであり、上流階級の者と連れ立って然るべき場に赴いたとしても、洗練された彼女たちの素性を見抜ける者は少ないだろう。だがドレスの下に息づく身体は欲望を満たす術を心得ており、床を共にした男を虜にするための手練手管には事欠かない。
 そんな中で生き残るためにも覚えておくべき知識とは、礼を失することのない言葉遣いに始まり身のこなし、化粧、ダンスや小唄、古典文学から政治情勢に至るまで実に多種多様に渡る。最高級の娼妓たちの価値とはその身体だけに限らない。機転の利いた小粋な会話や安らぎを生み出す心配り、共に過ごせる時間の全てを客の歓びに変える能力――それこそが彼女たちとその他の娼婦の間に一線を画してくれるのだ。

「身体の方は生まれつきの具合もある程度は関係あるけどね。そっちはいずれ教えてあげるから、あんたはまずこっちをしっかり詰め込んでおおきよ」

 そう言ったイザベラは自身のこめかみを手にした煙管の先で示す。1流の娼婦は1流の知性の持ち主たるべしとは彼女の持論であり、確固たる信念に基づいたパライソの経営は順調そのものだ。今では自由気ままな本来の性格で振る舞う女主人だが、その読みがいかに時流を捉えていたのかは言及するまでもないだろう。
 そんな彼女が直々に知識の全てを伝授しようという娘、それも生娘が妓楼にやって来たという話は早々館を駆け巡り、パライソの娼婦は誰もが驚き例外なく多いに騒ついた。中にはイザベラに気に入られた新人に対して不満を露わにする者もいたが、翌朝女主人と現れたルーチェに全員がはっと息を呑む。

「今日からあたしたちとここで暮らすことになったルーチェだ。ご覧の通りデビューはもう少し先だけどね。客を融通しろとは言わないけど、せいぜい仲良くしておあげ」

 さも普通にそう言うイザベラの横には傷を晒した娘が立っている。包帯を外したルーチェの姿は彼女に何が起こったのか、そしてなぜこの場に流れ着くに至ったのかまでを理解させるのに十分だった。
 一介の遊び女ならばともかく、娼婦の世界で生き抜く女たちは皆何かしらの秘密を抱えている。この仕事に覚悟もなく飛び込んだところで、早晩潰れてしまうということを彼女たちはよく知っていた。それ故に緑の目を見た娼婦たちはもはや何も言えなかったのだ。ルーチェは女主人にうまく取り入った小賢しい新入りとは見做されず、かつての自身とどこか重なる仲間として受け入れられた。

「まだ皆さんと一緒にお店に出ることはできませんが……一所懸命勉強します。よろしくお願いします」

 そう告げる間にも娘の身体を鋭い痛みが走り抜ける。殺し屋の男が施した手当てが望み得る最善のものだったとしても、本来ならばまだとても自由に動けるような状態ではない。だが自らの力で生きるということをルーチェが自分で決めた以上、何の義理もない彼の住まいに留まっているわけにはいかなかった。

『あなたが今までいらした娼館の場所をどうか私に教えてください』

 部屋に戻るや否やそれを聞いた男は手にした包みを彼女へ放り、開けるよう手短に指示をした後で簡易な地図を描き始める。薄紙の包装を解いた中にはドレスが1枚入っており、何も持たないルーチェにはそれがとてもありがたいものに感じた。

「その身体でも倒れる前には着けるだろう。ノアから聞いて来たと言えばいい」
「ノア……?」

 差し出された紙片を受け取った娘が目を瞬いて繰り返すと、癖のある字を書いた殺し屋は視線をちらりと上げて言った。

「……俺の名だ」

 そして男は椅子に座るとルーチェに背を向けて黙り込む。それが女に対して着替えを促す彼なりの気遣いだと気づいた時、娘は全身を走る痛みに堪えて大きなシャツの釦に触れた。
 そこへ男の手がかけられた時からはまだ半日の時間しか経っていない。目も眩むような激しい口づけに続いてその身にノアが触れた時、キスさえ経験のなかったルーチェは何を思っていただろう。そういう行為があるということはいつの頃からか知っていて、いつかは自分も誰かとそうして知っていくものだと夢見ていたが、見知らぬ相手とあまりにも突然“その時”を強いられてしまうとなれば、声すら出せなかった彼女の本心はもちろん恐怖でいっぱいだった。
 それでいて娘は今や娼婦として新たな人生を始めようとしている。そのあまりにも突飛な発想の飛躍には彼女も矛盾を感じているが、だからと言って自身の選択が安易なものとは思わない。これまでシルヴィオ以外に好意を持って声をかけてきた男など1人もおらず、ノアが我に返って飛び退かんばかりに離れたことを鑑みても、ルーチェは自分がそういった魅力に乏しいことを理解していた。遥々娼館を訪ねたところで断られるかもしれないし、運良く迎え入れてもらえたとしても仕事が取れるかはまた別だ。
 不安ならそれこそ尽きぬほどある。だがもう死にたいとは思わなかった。娘は生きることだけを考えていた。そしてそうさせたのは――彼女の命を奪うはずだった殺し屋の男。

「あの……」

 長い時間をかけて着替えた女が迷った末に上げた声に、ノアは頬杖を解くとやおら振り向いて娘の言葉の続きを待つ。

「ありがとうございました。あなたのおかげで……生きていけます」

 淡い緑の眸の奥には柔らかい希望の光がある。彼がそんな輝きを目にする機会など滅多にないことをルーチェは知らない。

「もうお逢いすることもないかもしれませんが、それでも……」

 対する男のブルーグレーの双眸は静謐にも似た無感情で、そこに何らかの感情の動きを読み取ることなどできはしない。だが女は自分を見つめるその目から視線を逸らすこともなく、荒療治とは言え生きる縁を与えてくれたことに感謝した。

「あなたのことは忘れません」

 走り書きされた地図を手にした娘が部屋を出る時も、殺し屋は見送りの言葉1つさえかける素振りを見せなかった。だが振り返らずに去って行く彼女が雑踏の中に消えるまで、その住処の扉が閉められる音が聞こえてくることはついぞなかった。

“大きな街……”

 ルーチェはふらつきながらも何とか路地を抜け表通りへと辿り着き、人々の歩く速さも故郷の町とは全く違うことに圧倒される。見知らぬ場所で携えた地図以外に彼女を導くものはなく、大海を当てもなく漂う暮らしは孤独と表裏一体だ。だが一歩踏み出す毎に感じる痛みは生きている証であり、娘はこれまでの人生の全てを通じて最大の自由を手にしていた。それでも心が折れればあっという間に沈んでいってしまうだろう。だからこそ持てる限りの勇気の薪を1つ残らずかき集め、暗闇を照らし出す灯台のように炎を掲げていなければ。

「ルーチェ、じゃあさっそく昨日の続きといこうじゃないか」
「はい」

 煙管を吹かして歩き出すイザベラに頷いたルーチェがついて行く。勇気――娘がその言葉を思う時、胸をよぎるのは灰青の目をした黒髪の男の面影だ。冷たくも強い意志が秘められたあの眸といつか再びめぐり逢えたら。彼が殺さず生かした娘の存在に意味があったと思う日が来てくれたら。
 もう1度生まれ変われる機を得た命に過去という足枷などいらない。ルーチェの人生はノアの手によって新たな幕を開けたのだから。