「……どうして、あなたが……?」

 2人だけが部屋に残されてしばしの時が経った後、消え入りそうなルーチェの囁きが耳に痛いほどの沈黙を破る。小さく1つ息をついたノアは頭に載せていた帽子を取り、ポンチョの釦を外すとそれらを鞄と共に床に置いた。

「さあな」

 その声の響きに娘の眸がほのかな懐かしさを滲ませる。それをなるべく直視しないようにしながら男は無造作に歩を進め、困惑を覆い隠すように眉根を寄せたまま淡々と彼女に言った。

「……で?」
「?」
「俺が好きに進めていいのか? それともお前が“習い事”の成果を試してみるか」

 言葉の意味を理解した瞬間ルーチェの頬は紅く染まり、それはこれから娼婦を名乗ろうという女が示すべき反応とは程遠い。そんな娘を結果的にこの道に導いてしまった者としては、その責任を自ら取るというのも言い得て妙だとノアは思った。だからこそこれから始まる行為は何ら特別な意味などない、相手が誰でも構わないような実験の1つに過ぎないのだと。

「あなたが……もしお嫌でなければ」

 だがそんな殺し屋の内心の葛藤を知らないルーチェは小声で告げる。

「試してみてもいいですか」

 意を決して彼を見上げる顔には尋常ならざる緊張が見て取れた。しかしノアが何も言えなかった理由はその見事な素人ぶりではない。
 女は――ルーチェは、美しかった。元より容姿に秀でていたとは言え、男がその目で見ていた姿は真っ赤な鮮血で染まっていたか、物1つ言わずに青褪めて包帯に包まれていたかのどちらかだ。今のルーチェはそのどちらでもない本来の愛らしさを取り戻し、この娼館で磨かれ更なる光を得たという言葉が当てはまる。深い珈琲色に輝く髪も、艶やかな薔薇色の唇も、若葉にも似た緑の眸も健康的な魅力に満ちていて、それらの全てを引き立てる肌にもあの酷い傷痕は見当たらない。露出の少ない上品なドレスはイザベラの見立てと思われるが、清楚な仕立ては扇情的な曲線を隠すどころか露わにし、旧知の娼婦のしたり顔までもが容易に目に浮かぶのだった。
 黙り込んだままのノアの態度をルーチェは肯定と受け取ったのか、2人の間を隔てる半歩分の距離がおもむろに0になる。すぐ傍にその存在があると言うのに、娘の身体からはまだ娼婦特有のあの匂いを感じることはない。だがいずれはそうなってしまうのだろうか。自分がそうしてしまうのだろうか――今夜身体を重ねてしまえば。

「……!」

 両肩に震える手が置かれ、煌めく眸を縁取る睫毛が心を決めて伏せられた後、そっと近づいた女の唇が掠めるように男に触れる。その瞬間に殺し屋の身体の奥では形を持たない何かが蠢き、耳元で聞こえているかのような心臓の鼓動は激しさを増していく。羽根のように軽い戯れのキスはそれからも幾度か繰り返され、その狂おしいほどのもどかしさにノアが苛立ちさえ感じ始めた頃、ルーチェの舌先がようやく及び腰に彼の唇の上をなぞった。大方女主人や他の娼婦に理屈を教え込まれでもしたのだろうが、それらを忠実に再現しようとするのは経験がないという証であり、身の内の獣が解き放たれそうな男には物足りないの一言でしかない。

“そんなものじゃないだろう……お前と俺とは”

 かつて2人が交わした口づけを彼女は忘れてしまったのだろうか? そんなことはないはずだ。あんなにも鮮烈で焼き付くほどの経験は誰とでもできるようなものではない。人生において後にも先にも、あの感動を味わわせてくれる相手はこの世にたった1人だけだ。

「――っん!」

 ノアはルーチェに自ら腕を回すと抱え込むように口づけを返していく。不意を突かれた女の驚きは甘い吐息をくぐもった喘ぎへと変え、男はその機を逃すはずもなく更に深くまで求めていった。熱い舌と舌とが絡み合い、どちらのものかわからない唾液が混じり合う。苦しさ故かいつかのように細い手が彼のシャツを掴んだが、当然のことながらそんな程度で解放してやれるはずもない。

“ああ……そうだ、これだ”

 ぞくぞくするほどの期待が殺し屋の身体中を隈なく駆け巡る。あの時も感じたこの感覚、その正体などもはやどうでもいい。今はただ欲しくて仕方がない。欲しくてたまらない――この女、ルーチェ・フェレイラが。
 ノアが足から力の抜けた彼女を抱きしめるようにして支えると、長い口づけを終えた2人の唇を銀の糸が細く繋いだ。視線を落とせば荒く上下する豊かな膨らみが自然と目に入り、男の背筋をまたしてもぞくりと欲望のさざ波が走り抜ける。だが何も言わずにルーチェを抱き上げベッドに足を向けたノアを、まだ呼吸も乱れたままの彼女のか細い声が遮った。

「ま、待ってください。まだ……あなたに」

 肩で息を繰り返しながらもルーチェは必死に言葉を紡ぐ。

「させてほしいことがあるんです。これをすれば必ず悦んでもらえるって、他の人たちに何度も言われましたから」

 本当は今すぐにでもその服を引き裂いて全てを奪いたいところだが、“ただの水揚げ相手”であるはずの男はそれを了承するしかない。娘は危なっかしい足取りで降り立つとノアに触れた手を下げていき、自らもゆっくりと膝をついて、そして――。

「!」

 既に明確な反応を示すその場所へと女の掌が重なった。今にも泣き出しそうな顔をしながら、ルーチェは古いベルトのバックルを外して白い手を中へと差し入れる。微かに震える指先に宿るのは恐怖か、はたまた不安だろうか。

「……っ!」

 硬く反り返り脈打つ自身が娘の眼前に取り出され、唖然としながら立ち尽くすノアは思わずごくりと息を呑む。男のそれを間近で見たことなどなかった女も口を噤み、人の身体にこんな部分があることを文字通り突きつけられていたが、それでも最後に残った迷いを捨て去る覚悟ができたのか、ルーチェは激しい口づけの名残で濡れている柔らかい唇を微かに開いた。

「う……!」

 彼女が何をしようとしているのかなどわかりきっていたはずなのに、それでもノアは金縛りに遭ったように身動き1つできなかった。その手を伸ばした時にはもう遅く、娘の舌は最も敏感な部分をこよなく丁寧に辿っていく。下から上へ、またその逆へ。緩やかに与えられていく刺激に華奢な手が全体を温かく握る。ルーチェが時折零す吐息にさえも歯を食い縛ってしまうほど、今や殺し屋の男の意識は完全に囚われてしまっていた。慣れていないのがすぐにわかる愛撫は稚拙なだけにより新鮮で、舌先が先端に円を描く頃にはもう滴るほどに感じてしまう。可愛らしい女にここまで尽くされて歓ばない男などいないだろうが、そんなことを考えている余裕があったのもその時までに過ぎなかった。

「……!」

 ルーチェの唇に自身が包まれた瞬間、頭の中が真っ白になる。熱く濡れている娘の口内でゆるゆると柔らかな舌が這い、先端を優しく吸い上げるのに合わせてなめらかな掌が幹を摩った。小さく聞こえる水音はその行為の興奮を飛躍的に高め、本当に下腹部を合わせているような快感はそれまでの比ではない。本能で危機感を覚えた男は彼女を押し戻そうとしたものの、快楽に支配されつつある身体はとてもまともに動かなかった。

「や、めろ……ルーチェ……!」

 辛うじて声に出せた言葉も掠れ、女はその目を伏せたまま懸命に繊細な奉仕を続けている。だが……。

「だめだ――やめろ!」

 焦りから込み上げる強い口調にルーチェが慌てて飛び退る。ノアを見上げる彼女の顔には如実に戸惑いが浮かんでいたが、涙の滲んだその眸ですら魅入ってしまうほどに美しかった。