ルーチェが眠りから醒めた時、既にその部屋には誰もいなかった。だがかけた覚えのないキルト、寝台の横に置かれていた小さな水差し、そして何よりも彼女の身と心が、誰かがそこにいたという事実をこよなくはっきりと告げていた。
 ノア・ロメロ――その名が示す男のことを、娘は果たしてどれほど知っていたのだろう。どこで生まれ、どう育ったのか。何を見て、何を考えながらこれまでの時間を生きてきたのか。名前さえ本名かどうかということも詳しく知りはしないのに、彼は紛れもなくルーチェが枕を共にして処女を捧げた相手だった。引き攣るような慣れない痛みに若干顔を顰めながら、女は何も纒わぬ身を起こして水を汲み乾いた喉を潤す。そして緑の目をした娘がグラスからその唇を離した時、珈琲色の髪からはふわりと煙草の薫りが漂った。
 殺し屋の男が戸を開けたイザベラの後ろに立っているのを見た瞬間、ルーチェはあまりの驚きに思わず問いかける言葉を失った。来ると聞かされていた客は、どう考えても彼であるはずがなかったのだ。部屋の準備を整えた後、そろそろ相手が来るはずだと言って女主人が出て行った時からずいぶん時間がかかるものとは思っていた。待てば待つほど緊張は果てしなく高まり、同時に不安もかき立てられる。一流の娼婦たちがこれを機会にありとあらゆる知識を授けたものの、彼女はこの場に来るまで行為の詳細も知らなかった生娘だ。伝え聞き頭の中に描いたものと、実際のそれがどこまで同じかは試してみるまでわからない。それを信頼するイザベラの旧知とは言え顔も名前も知らない相手に委ねる、そこに憂いが全くないということはやはりどうしてもあり得なかった。そしてそんな弱気な自分を叱咤するためにルーチェが思い浮かべたものは、冬の明け方の湖にも似た灰青色の目だったのだ。
 同じ眸の持ち主がかつての傷を辿るように触れた時、娘は自身の命尽きかけた忌まわしい夜を思い出した。見知らぬ男の血にまみれた両手は手袋でもしているかのようで、紅く濡れた刃に斬り裂かれる度おぞましい嗤い声が響いたものだ。

『しまった、先に刻んじまった』

 その言葉の意味に彼女が思い至ったのは随分と後のことだった。確実に死を迎えはするが、すぐには事切れない程度の傷を刻んだ本人はあわよくばルーチェの最初にして最後の男になるつもりがあったらしい。そうでなかったことは今でこそ不幸中の幸いだと思えるが、既に痛みすら感じなかったその時の彼女には大した意味などなかったのかもしれない。誰に雇われたかも定かではない胡乱な下手人が場を離れ、本来ならばルーチェはその時天に召されているはずだった。だが死の淵から蘇った娘の護られし純潔は1年の後、彼女を殺すために現れ命を救った男のものになる――数奇な運命の悪戯を経て。
 娼婦というのは繊細なバランス感覚を求められる職だ。客に無愛想な態度を取るならもちろん商売にはならないが、かと言って近くなりすぎれば今度は自分が辛くなることもわかっている。どんなに懸命に働いたところで日陰の存在であることは変わりなく、誰かに心を惹かれてしまえば仕事が苦痛に感じるだろう。そして真摯な想いを寄せたとしても、その真心に報いてもらえることなどこの立場では決して願えはしない。イザベラが客相手に恋愛感情を抱くなと何度も言うのはそのためだ。ルーチェがここに来てから1年足らずの短い間にも、その禁を破って恋に溺れた娼妓が1人この館を出て行った。許されないのは恋をすることではなく、他の客との間に差が出てしまうことだと女主人は忠告する。だからと言って大概の場合は愛する男がありながら、仕事も全うできるほど器用な娼婦でいるのは難しいとも。
 まだ見習いの身だった娘にさえもその理屈は十分に納得できた。そして理解できるからこそある人物のことを考えてはいけないとわかっていた。わかっていたが、それは心の支えだった。きっともう逢うこともないからこそ大切に思い出すことが許された、ノア・ロメロという名の寡黙で孤独な黒を纏った殺し屋の男。
 人の命を刈り取ってゆく死神、だがルーチェには守護天使そのもののようだった。縁もゆかりも無いはずの娘を死する運命から救い出し、依頼者に報復を試みるにあたって価値のない存在だとわかってからも、身の振り方を考える時間と揺るがぬ覚悟を与えてくれた。叩き出しても構わないようなただの厄介者である彼女に、自分自身で考えること、そして生きていくとはどんなことなのかを言葉よりも行動で教えてくれた。一見他人に興味など持たない印象を与えがちな男だが、本当に冷酷な心の持ち主なら決してそんなことはしないだろう。今夜とてルーチェを気遣う必要など本来ノアには全くない――なのに。

「――っ」

 かつて交わしたものよりなお甘い、心を溶かし尽くすようなあの口づけ。思い返せば途端に蘇る男の熱くも優しい感触に、娘は思わず自身の唇にその指先で触れてしまう。彼がもし本当に血も涙もなくただ人を殺すだけの男なら、こんなにも時間と思いやりをかけつつ処女を抱くことなどできはしない。ルーチェはノアの不器用な優しさを心のどこかで感じていた。何も知らないに等しい相手であるということは事実だが、それでも彼にその身を許すことを決して嫌だとは思わなかった。そればかりか最初の1人を自分の意思で決めることができると言われたなら、星の数ほどいる男の中から彼女はノアを選んでいただろう。
 しかし他に生きる術がないのならこの娼館だけが世界の全てなのだ。いつの日かルーチェに手を貸したことを懐かしく思い出してほしいのなら、この場にいられなくなるような感情など捨て去ってしまわなければならない。新たな門出を迎えるその時に恩ある相手がいてくれた、それだけのことなのだと彼女は自身の心に何度も言い聞かせる。これからは何も思い残すことなく娼婦として生きられるだろう。ルーチェは今夜そのための一歩を踏み出したばかりなのだから。

「ルーチェ、起きてるかい?」

 その時、小さく扉を叩いたイザベラが外から問いかける声がした。既に服に袖を通し終わっていた娘ははっと顔を上げ返事を返す。

「はい、どうぞ」
「邪魔するよ。さて……」

 赤毛をまとめた女主人は流れるような足取りで部屋に入り、戸を閉めた後でベッドの前に立っているルーチェへ問いかけた。

「どうだった、初めては」

 相手を務めた張本人から首尾の如何など聞いてはいるだろうに、改めて感想を尋ねられた娘は目を瞬いて頬を染める。何をどう言おうかしばしの間考えを巡らせてはみたものの、おかしなほど曖昧な言葉しかその頭には浮かんでこない。

「思っていたのとは少し違ったかもしれません。でも……」
「でも?」
「あの人は優しくしてくれました。とても」
「……優しくしてくれた、か」

 呟くように繰り返したイザベラはふと遠くに視線を落とし、咥えようとしていた煙管を離して真っ直ぐにルーチェの目を見やった。

「ルーチェ、あんた今でもまだ娼婦として生きていくつもりはあるかい?」
「え?」
「正直にお言いよ。別に怒りゃしないからさ」

 突然問われた質問の意図など娘にはまるで掴めない。だが彼女の中に存在する答えはいつもただ1つしかなかった。

「もちろんです。そのために私はここに来たんですから」