「……そうか。そうだね、あんたならそう言うと思った。おかしなことを聞いて悪かったよ」
イザベラは短い沈黙の後でほっとしたようにそう語り、ルーチェの肩口をぽんと叩くと明るい声でこう続ける。
「じゃあ明日からもよろしくね。これからはもっといろんなことを覚えてもらわなきゃいけないんだから」
「はい。よろしくお願いします」
女主人は笑顔を浮かべて部屋を出た後でおもむろに煙管に火を灯し、憂いを帯びた表情を見せながらほろ苦い煙を吸い込んだ。
――その翌朝。ついに水揚げを済ませた娘の周りに娼婦はこぞって集まると、事の詳細を聞きたがってはルーチェに質問を投げかける。彼女たちは相手の男がイザベラの昔の馴染みであることしか知らず、来るはずのない者に入れ替わったことなど当然ながら知る由もない。
「それにしても口でしてすぐに男の方からやめろって言われるのは珍しいわねえ。大抵もっとやってくれって言うもんだと思ってたんだけど」
「でもベラの昔からの馴染みだったならそれなりの歳なんだろうしそんなもんじゃない? 肝心なところでできなくなっちゃったら困るってのはその通りだし」
「そうそう」
そんな赤裸々な会話が自分の目の前で交わされるという状況に、新人の娘は気恥ずかしさから視線をあちこちに彷徨わせる。娼館の中では物珍しくさえある彼女の初心な様子には、百戦錬磨の娼妓たちもさすがに笑みを零さずにはいられなかった。
「まあでも相手もあなたも快くなれたんなら初めてにしては上出来じゃない。さすがベラのお眼鏡にかかった客はどれも外れがないわ」
「そうよルーチェ、あんた運が良いのよ。あたしなんて1人目のことなんか思い出したくもない、痛いだけでさっさと終わってくれないかってあの間中ずっと思ってたんだから」
「マーゴ、そりゃ単純にあんたの男が下手だったってだけの話でしょ」
広がる笑いを妨げないようルーチェも口角を上げはするが、その微笑みが心からのものではないと気づく者などこの場には誰もいない。パライソで唯一それを見抜けそうな赤毛の女主人はと言うと、館の裏手の小さな応接間で話をしているところだった。
「先日ご依頼の品ですが、こちらでいかがです?」
「どれ……ああ、いいじゃないか。さすがだね、あんたに頼めば一発だ」
「へへ、恐れ入ります」
イザベラの向かいに座っているのは無精髭も冴えない男だが、かつては裕福な屋敷お抱えの肖像画描きだったという過去を持つ。パトロンの没落に伴い酒量が増えるに任せていた彼は、酒浸りの日々を過ごしている間にスラムへ流れ着くまでに至る。だが1杯の酒代にも窮するような生活を営んではいるものの、男の腕がなお凡庸な画家を凌いでいるのは間違いない。
女主人は2年ほど前から彼の持つ技量にその目をつけ、娼婦たちの肖像画の作成を必要な時に依頼していた。出来上がった画は非番の者を外して娼館のホールにかけられており、赴いた客はその日に選べる娼妓の全てが一目でわかる。他の店とは一線を画す雰囲気は評判も上々で、実物をより美しく魅せると豪語する絵描きは“本物”だ。
「毎度悪いね。じゃあ代金の方だけど――」
「ああイザベラさん、それなんですが」
「何だい?」
イザベラが口火を切ろうとすると、ほのかに酒の臭いを漂わせる男は自身の画を指差す。
「代わりに1度相手をさせちゃもらえませんかね?」
美姫がひしめくと噂の妓楼でも、ここまで上玉の娘となったらなかなかお目にはかかれない。この場で下書きを描かせている間も画家の目はルーチェに釘付けで、天啓を受けた芸術家の顔つきをイザベラは懐かしく思い出した。油絵の具の臭いもまだ真新しい手元のキャンバスに目をやれば、優しい光を宿す緑の目が恥じらいながら微笑みかける。陶器のようになめらかな肌、それを引き立てる珈琲色の髪。ほのかに色づいた頬と唇はめくるめく夜の予感を与えさせ、目にした相手の興味をそそるに余りある魅力があふれていた。だが彼ほどの画家を持ってしても、額縁の中の美しい娘は現実の彼女を超えられない……。
「悪いけどそりゃ無理ね。この子の花代よりあんたに支払う手間賃の方が安いってこと。あと3年くらい酒代貯め込んだら顔洗って出直しといで」
「参ったな……イザベラさんには敵わないねえ」
歓楽街の顔役の1人である彼女に逆らってもいいことなどない、それを知る絵描きは金を受け取ると長居もしないで去って行く。独りになったイザベラは煙管の端を歯でカチカチと鳴らしながら、額に入ったルーチェの画を眺めて1つ大きなため息をついた。
「――さあ、みんな準備はいいかい? 今夜もどんどん稼いでいこうじゃないか!」
その日の陽が落ち夜が訪れて表に人通りが増えた頃、女主人が威勢よくそう声をかけると女たちは自らの持ち場へと着く。店に出て客を取る娼妓たちは仕事場でもあるそれぞれの部屋に戻り、非番の者たちはイザベラと共に受付をすることもあるにせよ、基本的には自由な時間を各々好きなように過ごす。
今夜のルーチェは前者に属する娼婦の1人に名を連ね、彼女を選んだ客がいるのなら相手を務める段取りだ。期待に胸を膨らませた男が扉を開ける瞬間を待ち、多くの客から実入りを得ようと娼妓たちは彼らを待ち構える。駆け出しのルーチェもその例に漏れず自分の部屋へと入ったが、即刻新入りの娘のところへ誰かがやって来るわけもない。彼女は前夜もそうしていたように寝台の端へと腰を下ろすと、知らずのうちに指先を組み合わせて緊張と不安に耐えていた。早くも他の部屋からは戸を叩く音が聞こえてはくるものの、緑の目をした女の部屋には時計の音だけが響いている。
だがルーチェの姿絵も他の者と同じくホールにかけられているはずで、たまたまそれに目を留めた男が指名してみることもあるだろう。通ってくる男はだいたいが気に入った娼妓を既に持っていたが、数多の女と関係を持ちたいという正直な者も混ざっている。そしてこの名高い妓楼の評判を確かめんと懐を暖め満を時し、初めて門をくぐるという男ももちろん客の中にはいた。
彼女は自分の絵画がそういった客に好ましさを与えてほしいのか、はたまた十分な魅力を感じさせられずに捨て置かれたままでいてほしいのか、どちらが自分の本心なのかがわからなくなってしまっていた。イザベラはあまりに突飛な趣向の客なら回さないと言ってくれていたが、それはオーソドックスな趣味の持ち主なら問題はないということになる。まだやっと生娘を卒業したばかりでは厳密には娼婦とも言い難く、数々の経験を積んでいく中で娼妓を名乗れるとするならば、できるだけ早くにその日が来ることを願わないという話はない。
ならばこの心を揺さぶる何とも言えない不安定な感情は何なのだろう……?
“早く誰か来てくれればいいのに……”
いっそ客が来てしまえば思いを巡らせる余裕など当然なくなるだろう。だが娼館がその門を開いてから先どれだけの時間が経とうとも、ルーチェの元を訪れる男はただの1人もいなかった。受付を行う階下の賑わいは遠くから微かに漏れ聞こえ、人気のある娼婦は2人目の相手を迎えていたりもするのだろう。しかし忘れ去られてしまったかのような2階の小さな部屋の中には、ぽつんと独りで残された娘が訪れない相手を待っている。
――そしてその晩、ルーチェは客を取ることなく初めての店出しを終えたのだった。