「……また来てくれますか?」
身支度を終え、黒い帽子を手にしたノアへと女はそう尋ねる。それは娼婦ならば誰もが口にするだろう決まり文句の1つではあるが、彼女の胸にそれ以上の想いがあったことは言うまでもない。
「わからん。だが……」
相変わらず感情というものが見えない声で答えながら、殺し屋は自身の足音を立てずに見送るルーチェの前に立つ。
「縁があればまた逢うこともあるだろう」
そう言った男は彼女を引き寄せるともう1度短いキスをした。
ノアの姿が扉の向こうに見えなくなってしまった瞬間、娘の心は引き裂かれるような耐え難い苦しみに苛まれる。“行かないで”――そう魂が叫ぶたった1つの言葉さえ、単なる客への修辞でないなら口に出すことなど許されない。自らの選択に後悔はなく、この娼館の門を叩いた時から全ての覚悟はできていたが、恋した男に金で買われなければ逢うこともできないこの現実、その辛さを少しでも理解していたなら同じことはできていただろうか。
殺し屋の男がかつての標的を愛することなどあり得ない。だからこそルーチェの想いは報われることなく終わると決まっているのみならず、この場所で生きていくその決意自体をも揺らがせる危うさに満ちている。くれぐれも恋だけはご法度なのだと忠告されたにもかかわらず、最初の1人を彼女はこんなにも深く愛してしまったのだから。
「おはようございます」
翌朝ルーチェが降りてきた時にはまだ人影は少なかった。だが娼婦たちの耳にはようやく2夜目を迎えた話は伝わっており、本人以上にほっとした表情で彼女を食卓に招いてくれる。
「よかったわね、こうなりゃ後はどんどんお客がついてくるわよ」
「たまにあるのよ、全然客が取れない時がね。何が悪いってわけじゃないんだけど、強いて言うなら運が悪いっていうか」
「そうそう、そういう時は馴染みのお客もみんな忙しいだの何だので来てくれないのよね」
「――で、その2人目の客はどんな男だったの?」
誰かが尋ねたその質問に、居合わせた娼妓は皆一斉に頬を染める娘の顔を見た。
「2人目というか……初めての人がまた来てくれました」
「そうなの!? じゃあもう常連を1人捕まえたってことじゃない!」
「やるじゃないルーチェ、それってよっぽど気に入られたってことよ。ちゃんと引っ張って逃がさないようにしなくちゃ」
「……はい、がんばります」
その返事にそれぞれ安心したのか移り変わる話題の中で、ルーチェはやはり昨夜の店自体が繁盛していたことを知った。自身の元へノアが来たことには何も特別な意味などなく、たまたまその時空いていた娼婦が自分だっただけに過ぎないが、もし彼も望んで来てくれたなら……そんな幻想は娘の心をほんのひと時慰めてくれる。
その日は非番で画もかけられず客が来ることがないために、彼女は密かにノアとの蜜事を思い返しながら過ごしていた。明日の陽が落ちればルーチェは再び客を待つ娼婦の1人となる。その時初めて知り合うことになる相手を精一杯もてなせるよう、1人の男しか知らない娼婦は静かに緑の目を閉じた。
「……いや、だから金ならこの前払っただろう?」
「本気で言ってんのか? あんなもんツケの利子にもならねえよ。かっぱらいでも何でも構やしねえ、これ以上酒が欲しいってんなら金を用意してから来るんだな!」
「うわっ!」
それからしばらくの後――歓楽街からはほど遠い、簡素なバラックが建ち並ぶスラム街。粗悪ながらも酔いが回る酒を暴利で売り捌く屋台の前、絵描きの男は屈強な店主と口論の末に弾き飛ばされた。
「腕の1本や2本折ってやってもいいがな、そうしないだけありがたく思えよ。てめえが1番稼げる手段はこうして残してやってんだからな」
「――くそっ!」
ろくな舗装もされていない路端にポケットの中身が散乱する。画家は飛び散ったコイン、数枚の紙きれにパンの欠片をかき集め、最後に掌ほどの小さな額縁をその懐にしまい込んだ。悪態と共に唾を吐き、彼は無気力な目つきの者たちが集う通りをそそくさと後にする――誰かがじっとその一部始終を見ていたことに気づかぬまま。
底辺の存在が寄せ集まったこの一角はほとんど無法地帯だ。その中の誰かが生きようと死のうと気にする者など1人もいない。落ちぶれ、あるいは何かから逃げ延びてここに辿り着いた者たちは、名前も過去も捨て去ってあたかも“存在していない”者になる。貴重な酒や食料を奪い合い、知人でも一目では気づかぬほどに様変わりを果たしてはいるものの、絵描きの男はそれでもまだ何とかその日その日を暮らしていた。油絵の具の臭いが鼻を突く粗末な小屋へと戻ってきた画家は、おもむろに手製の木枠を取り出すと角についていた泥を払う。
「危ない、こいつに傷がつくところだった」
嵌め込まれている布の切れ端には美しい女が描かれている。緑の眸も麗しい娘は得意先の娼館の見習いで、女主人に呼び出された男は水揚げ前の彼女と出会った。
『この娘の姿絵を描いとくれ。出来によっちゃ礼を弾んでもいいよ』
まだ彼が肖像画を描いていた頃に雇われていた屋敷の1人娘――莫大な借金を抱えた一家が離散の運命を辿った際、異国の金持ちに売られた女も同じ色の目をしていたものだ。順風満帆だった人生から転落していた男にとって、その出会いは遥かな日々の思い出と憧れを思い起こさせた。キャンバスだけには忠実な絵描きに残念なことがあったとすれば、それは記憶の中の令嬢よりもなお娼婦の姿が美しく、自分の力で表しきれない悔しさを感じたことだろうか。
片時も手離さずにいたはずの酒さえしばらく絶ちながら、男は寝る間も惜しんで毎日絵筆を握り続けていた。おかげで当初の予定よりも早く画は完成していたのだが、それでいてすぐに依頼者へ作品を納めなかったのは理由がある。男は他ならぬ自身のためにも同じ肖像画を描いていたのだ。
「――おい、お前」
「!?」
だが心の縁を眺める画家に突然声をかける者があった。彼が驚いて振り向けば、いつしか開け放たれていた戸口に見知らぬ男が立っている。
「だ、誰――」
「お前、どこで彼女を見たんだ?」
「え?」
「ルーチェだろう、これは。ルーチェだ……僕にはわかる。やっぱり死んだなんて嘘だったんだ」
ふらふらと中へ入ってきた男は異様な雰囲気を放っていた。土気色の顔を覆い隠す巻き毛は手入れもされずに伸びたまま、目だけがぎらぎらと血走る様から年齢を推測することはできない。だがその身に纏った衣服の全ては薄汚れてしまっていたが、平民出の画家にさえわかるほど明らかに高級な品だった。
「ルーチェ……!」
「あっ!」
おかしな足取りで近づいてきた男は小さなキャンバスを奪い取る。
「逢いたかった……僕のルーチェ。愛する、僕の」
その画を虚ろな目で見つめたまま闖入者はぶつぶつとそう呟き、そんな様子は誰が見たところでとても正気だとは思えない。そして恐ろしいあまりに身動き1つさえ取ることもできない絵描きへと、ゆっくり顔を上げたその男はきっぱりとした口調で告げた。
「彼女の居場所を早く言うんだ。もう逃げ隠れなんかしなくていい、早く僕が迎えに行かないと」
凍りつくような不吉な予感が画家の男の背を震わせる。本能が彼に警告する……この男は限りなく危険だと。
「あんた、何の権利があってそんなこと――」
「権利?」
思わず尋ねた絵描きに男はぞっとするような声で笑うと、外套の下から鈍く輝く拳銃を取り出してこう言った。
「口を慎め。彼女は僕の婚約者だ」