「すまなかったね。あんたに言わずにすることじゃなかった」
「いえ……すみません。こちらこそ余計な心配をさせてしまって」

 部屋を訪れたルーチェにイザベラはばつが悪そうにそう言った。娘は驚きはしたものの、自分のためにしてくれたことへと腹を立てる性格ではない。叶わぬ想いを断ち切るためには仕事をするのが最善で、客がつかない原因も自身にないと知れて良かったのだから。
 ……だが話はそこで終わらなかった。

「……あのね、ルーチェ」
「はい?」
「聞きたいことがあるんだ。前にも言ったように、別に何を言おうと怒りゃしないから」

 そして女主人はルーチェを見つめると静かな声で語りかける。

「あんた、ノアのことは好きかい?」

 その眸に驚きがよぎったことなど相手はすぐに気づいただろう。だが平静を保とうとしながら娘は言葉を選んで返事をした。

「好きか嫌いかと聞かれたら――好きです。命を助けてくれた人ですから」

 それは決して嘘ではないが、また真実の全てにもほど遠い。そんな矛盾に気づいているのだろうか、イザベラはどこか遠くを見るような目で再び愛弟子にこう尋ねる。

「そうだったのか……それじゃもう1度聞くけど、ノアを愛してる?」
「えっ!?」
「大事なことなんだ。正直にお言いよ」

 今度こそルーチェは動揺を隠してやり過ごすことなどできなかった。だがその問いに対する唯一の答えはいつも心の中にある。

「……いいえ。あの人はお客様ですし、私は……」

 それは耐えられないほど募ったノアへの恋しさで涙が滲む夜、彼女が自分自身に向けて言い聞かせる言葉だったのだから。

「私は、娼婦ですから」

 誰にも何も怯えることもなく自らの意志で生きる人生、それがどんなに尊くかけがえのないものか言葉ではとても表せない。だからこそ命を救ってくれた殺し屋と高級妓楼の女主人、恩ある2人に借りを返すためには最高の娼婦になりたかった。誰かを愛して立派に務めを果たせなくなってしまったら、ルーチェを助けた意味などなかったと落胆されるに違いない。
 この想いは彼を愛しているのなら絶対に告げてはならなかった。せめてその記憶の中でだけは、自分の力で歩める姿を覚えていてほしかったのだ。

「なら今度こそ本当に他の客も相手してもらうよ。それでいいんだね?」
「はい」
「……わかった。明日店に出る時、あんたの画もちゃんとかけるって約束する」

 そう言ったイザベラに娘は感謝の気持ちを込めて微笑んだが、その乾いた頬には両の眸から見えない涙が伝っていた。
 ――折しもその翌日、殺し屋は金が詰まった鞄を手に夜の大通りを歩いていた。白い館が人混みの向こうに優雅な姿を現すと、赤毛の女に投げかけられた一言がふと思い出される。

『あんた――あの子を愛してるの?』

 ノアは身体中をざわめかせる不条理な感情の名前を知らなかった。だがイザベラからそう問われた瞬間それは真実の名を見出し、彼には全てがあるべき場所にしっかりと収まったように思えた。

“ああ――俺は、ルーチェを”

 愛という概念は知っていても、それを感じたことはあるかと聞かれれば答えは当然否でしかない。だが一体何の因果だろうか、殺し屋はそれを切り捨てる仕事を選んだ女に恋をした。緑の眸を目にする度にかき立てられてしまう強い欲望、それが単なる肉体の飢えではないことに気づいたのはいつだっただろう。壊れた人形のようだった娘が生きるための力を取り戻し、自らの足で立ち上がる姿は貴い輝きに満ちていた。それは暗闇の中に生きてきた男を何よりも強烈に惹きつける。恐らく彼女が殺し屋の元を旅立っていったあの日から、閉ざされた彼の心の中にはルーチェへの愛が芽生えたのだ。
 娼婦が客に恋慕の情を持つことは禁じられているが、それ以前に獲物が捕食者を愛することなど決して起こり得ない。彼女を愛しているとわかってから再びその部屋を訪れた時、ノアの姿を見たルーチェの顔には戸惑いばかりが浮かんでいた。同じ想いが返されることなど最初から望めるはずもなく、金と引き換えに逢えるだけでいいと納得していたつもりでも、娘のそんな表情を見てしまえばやはり思わずにはいられない――どうすればルーチェの心を自分に向かせることができるのかと。
 逢えない間も買い占める、そんな愚行は彼女のためを思うのならしてはならないことだった。ルーチェはあくまでも娼婦であり、彼1人を待ち侘び囲われるために努力をしてきたわけではない。娘の画の処遇を見る限りは“考慮”されているのだろうが、これがいつまでも続く無害な遊びでないこともまたわかっている。殺し屋の行為は愛した女の自立を妨げることでしかなく、一方的に奪おうとするならばシルヴィオと何も変わらない。だが虚構の上にだけ成り立つ仮初めの愛さえも求めてしまう身には、注ぎ込む紙幣の額面だけが真心の証であったのだ。
 いつその終わりが来るともしれない不安をどこかに抱えながら、男は焦がれた娘に逢うため娼館の前で足を止めた。音もなくホールに続く戸を開けると女主人の姿が見える。イザベラはちょうど店に出る娼婦の肖像画をかけていたのだが、そこに珈琲色の髪の娘の画が並んでいるのを見た瞬間、ノアはあまりに大きい衝撃故に口に出す言葉を失った。赤毛の女は殺し屋に気づくと素早くそちらを振り返り、その表情から全てを察してゆっくりと首を横に振る。

「よく描けてるでしょ。本物には敵わないけど」
「……なぜ?」

 言えたのはただそれだけだった。しかしその示す意味などわかっている。ルーチェの存在をこれ以上隠さず公にするということは、2人が交わした密約の終わりを告げるということなのだから。

「ルーチェにあんたのことは話してないよ。でも何かがおかしいことには他の娼婦たちも薄々気づいてた。今まではどんな上客の予約も受けたことなんかなかったけど、あたしはあんたが本気だったから目を瞑ることに決めたのさ。あの子の気持ちがあんたに向く日が来ないとも限らなかったからね。でも……」

 その先に続く言葉に男は両耳を塞いでいたかった。札束を積んでひと時手にした夢の結末は残酷で、幻は前触れもなく突然煙のように消えてしまう。

「……ルーチェもあんたを愛してるんなら名残惜しいけど手離した。でもあの子は自分で生きていくためにここにいる道を選んだんだ。あんたもルーチェが大事なら……その気持ちもわかってやって」

 その瞬間にノアがルーチェへと寄せる想いは無残に砕け散った。娘が自身の意志で娼館に生きると決断したのなら、単なる客として以上の愛など望めば彼女の邪魔になる。だがこうして逢いに来ていればいつか耐えられなくなってしまうだろう。そして娼婦にただ1人だけの想いを捧げてほしいと願うのならば、男はもはやここを訪れる資格など持ってはいなかった。
 ルーチェを本当に愛しているなら今すぐ永遠に去るべきだ。さりとてすぐにそう割り切れるほど彼の想いも浅くはない……。

「……わかった。だが今夜は……」

 長く重苦しい沈黙の末、男はいつもに増して感情を殺した静かな声で告げた。

「ルーチェに逢わせてくれ。頼む」

 今夜で終わりにするつもりだなどとイザベラに言う必要はない。何もかも承知で頷いた彼女に大金を無言で押し付けると、殺し屋の男は螺旋階段を重い足取りで上がっていく――生涯で唯一愛した女と最後の夜を過ごすために。