それは想いを伝える状況として最善のものだとは言い難い。しかし今この時も姿なくして勇気をくれる男の存在を、ルーチェは絶対に屈しないために何よりも強く求めていた。彼女が愛した相手は後にも先にもたった1人だけだ。彼に寄せる想いがあればこそ、どんなに痛めつけられたとしても娘は抗い続けられるだろう。
 その男は揺るがぬ意志の下に生きる素晴らしさを教えてくれた。彼自身がそうしているように、ルーチェもまたそうでありたかった。自由を失いただ生き延びるためだけの日々には意味などない。心を折られてしまうくらいなら一瞬も迷わず死を選ぶ。それほどまでに女は全てを懸けてこの対峙に臨んでいた。

「嘘ばかり……僕じゃなければ誰がいるって言うんだ! 君が愛しているのは僕しかいない!」
「いいえ! 私が愛しているのは――」

 シルヴィオはますます怒り狂い、砕かれそうに掴まれた腕は激痛と共に骨が軋む。だがルーチェは真実を伝える言葉を続けることを止めはしない。

「愛しているのは私の命をあの夜に救ってくれた人、もう1度こうして生きていくための勇気を与えてくれた人です。それは絶対にあなたなんかじゃない!」

 獣のような唸り声を上げて男は彼女を睨みつけた。それでもルーチェは“復讐”を遂げるための一言をはっきりと告げる。

「今までもこれからも私が愛するのはその人しか……ノアしかいません!」

 ――今まさに押し開かれようとしていた娘の部屋の扉の向こう、殺し屋の男は息を呑んでその胸を打つ言葉を聞いていた。
 ノアが娼館に駆けつけた時、既にその部屋の周りにはカジノの男たちが集まっていたが、彼らは様子を窺いこそすれ突入には至らなかった。シルヴィオは酷く興奮しており、下手に手を出せば女の命の保証まではできなかったからだ。殺し屋は事態が膠着したままだったことには歯噛みしたが、ルーチェがまだ無事でいてくれたことには心の底から安堵した。娼婦たちは安全な大部屋の中に集められ匿われたまま、女主人1人だけが下のホールからノアを見上げている。
 微かに聞こえる会話からも破綻は時間の問題だった。男たちを少し下がらせ、この手の機を読む専門家である殺し屋は扉に手をかける。そしてこれ以上待っては娘の身に危険が及ぶと判断した時、彼女が発したその言葉ほど望んでいたものはなかっただろう。

「よくも――よくもそんなことを!」
「あ……っ!」

 憎悪に狂った叫びが響き、ルーチェをベッドに押し倒したシルヴィオはその首を絞め上げる。だが涙を浮かべた娘が声にならない悲鳴を上げた瞬間、開いたドアから飛び込んできた懐かしい影を彼女は見た。

「ぐあっ! やめ、ろ! っ!」

 突然身体が軽くなり、ルーチェは激しく咳き込みながら必死に手をついて立ち上がる。シルヴィオは床の上に倒れ、黒いポンチョを纏った男と争って殴り合っていた。

“……!”

 なぜここに“彼”が現れたのかなど娘にはわかるはずもない。しかし緊迫を切り裂くように現れた男を彼女は知っていた。忘れることなどできなかった……それはルーチェが愛した灰青色の眸の持ち主だったのだから。

「俺は!」

 もがく男に馬乗りになった殺し屋は拳を叩きつけ、相手の襟元を掴み上げながら絞り出すような声で言った。

「俺は愛しているから身を引いた。だがお前のような狂った男に引き渡すためであってたまるか!」

 何度も殴られたシルヴィオは血を吐き罵りの言葉を撒き散らす。さりとてノアも無傷ではなく血が伝う口元は痛々しい。手加減などしていられるような状態はとうに終わりを告げ、1人の女を争う2人の男はどちらも退きはしない。

「ルーチェを愛していると言いながらお前は一体何をした!? 愛した女の幸福が何かもわからんような人でなしに、ルーチェの前でそんな戯言は生きている限り2度と言わせん!」

 一際重い一撃の後、そう言い捨てて立ち上がったノアは堕ちた御曹司を見下ろした。シルヴィオは憤怒に歪んだ眸で射殺すように睨め返すも、そんな視線を向けられたことなど何もこれが初めてではない。だが殺したいという欲求故に殺すのは単なる異常者だ。他人の命を刈り取る時、愉悦を覚えた時点で最後の人間らしさは消え失せる。殺し屋は自身が重すぎる罪を背負っていると知っているが、それを認めてこそその芯までは蝕まれずに生きてこられた。だからこそ他人を犠牲にしながら気にも留めぬ依頼者たちが、ノアの目には人とは思えぬほど邪悪の化身に映るのだ。

「……っお前もルーチェを愛してるだって? 下賤な人間が、身の程も知らずに……!」

 口から流れた血を拭いつつシルヴィオはふらりと身を起こし、ノアは素早く距離を取りながら怯えるルーチェを背に回した。普通これだけ殴り飛ばされればとても立てはしないものだが、常軌を逸した相手の抱く憎しみは限界をも超える。

「来るんだ、ルーチェ! そんな男といないで、僕と一緒に来い! 証明するんだ、愛しているのは僕しかいないと!」

 シルヴィオは銃を手に取ると女に狙いを定めそう叫んだ。殺し屋はいつでも抜き去れるようにダガーに触れてはいるものの、飛び道具を持つ相手の傍には早々迂闊に近寄れない。それでもみすみす彼女を奪われるような愚行を犯すなら、鋭い刃を自身の胸に突き立てる方を選ぶはずだ。
 ルーチェが強い女であることは問わずとも既に知っていた。弱く流されるばかりだった娘が運命へと立ち向かい、自分の力で羽ばたく姿を彼もまた見ていたのだから。彼女の命を救った夜に生まれた絆は愛に変わり、殺し屋は初めて誰かを護りたいという感情を覚えた。ルーチェが望んでくれればどんな場所からも必ず駆けつける。愛した女の全てを受け入れることもできないシルヴィオに、もう2度と彼女の心を傷つけるような真似などさせはしない。
 ノアは制するように左手を上げて娘に動かないよう伝える。だがルーチェは彼の意表を突くようにその右側へと飛び出すと、歪んだ世界に生きている男へ最後の審判を下した。

「私はあなたの言いなりになんてならない。そんなことをするくらいなら今ここで死にます!」

 それは娘の本心だった。これ以上ないほど拒絶されたシルヴィオは彼女を撃つだろうが、ノアの想いを知ることのできた今では死をも恐れはしない。彼ほどの腕をもってしても、この場所で誰かを庇いながら銃を相手にするには無理がある。だがルーチェがシルヴィオの注意をノアから一瞬でも反らせるならば、その隙を突いて相手の武器を押さえることなど容易いだろう。
 愛する男をその凶弾から護ることができるとすれば、女は自身の命を危険に晒すことさえも厭わない。シルヴィオが殺意の全てを注いで憎んでいるのは彼女であり、彼の誇りを傷つけた報いを絶対に受けさせたいはずだ。足手まといでしかない自分が自ら囮となることで、この現状を打破できるならば躊躇などしている暇はない。
 シルヴィオの銃の照準は寸分違わずルーチェを狙っている。例えノアが身を挺したところでこの距離はもはや詰められない。彼に救われた命を使って道を切り拓く術となる、その願いはあと少しのところで成就するかのように見えた。だが――。

「…………!!」

 紅い鮮血が宙に舞い、女のドレスを染め直すような生温かいそれが飛び散る。感じるはずの痛みは小さく、衝撃はそれよりなお軽い。そして劈くような鋭い銃声が彼女の耳に届いたのは、緑の眸に映る光景の意味を理解した時だった。