「――ああ、始まったか?」

 鳴り響いた銃声と馬の嘶きに灰色の目を細め、馬上の男は楽し気な薄笑いさえ浮かべ独りごちる。その後ろでは手下と思われる柄の悪い男が2人、馬を降りることもなく下卑た表情で娘を眺めていた。

「ずいぶんと久しぶりだな、ミス・メイフィールド――いや、シャンティ」

 まとわりつくような不快な声に僅かに眉を顰めながら、シャンティは薄紅の唇を真一文字に引き結ぶ。

「巷の噂で聞いたがな、親父さんは死んだそうじゃねえか。こいつは寂しいもんだ、お前の花嫁姿も見ねえままぽっくりあの世に逝っちまうとはな」

 死期を早めた元凶である相手に仰々しくそう言われ、娘は我知らず力を込めて拳をぎゅっと握りしめた。彼の狡猾な企てを見抜くことができなかった頃から、今日までの記憶が頭の中を走馬灯めいて駆け巡る――これから何が起ころうと牧場主としての誇りにかけて、この場を決して退しりぞかないという決意を固くするために。
 “町角で娘を見初めた”、そんな真偽のわからない理由と共に札の束を持参し、男が結婚を申し込みに現れたのは3年前だ。慇懃無礼にアラステア・バロウズと名乗ったその男は、高そうな服を着て物腰こそ柔らかく振る舞っていたが、教養の貧しさが発する言葉の端々に滲んでいた。もちろんシャンティは相手の顔にも名前にも覚えはないし、女学校を卒業したとは言え結婚を急く理由もない。そして言葉では表現できない直感めいたものによって、どうしようもない違和感を彼から感じ取りそれを恐れた。父の心臓の発作から日も浅いうちでなかったとしても、アラステアと生涯を共にする選択はできなかっただろう。
 はっきりとした理由は告げずそれを断った彼女に対し、灰色の目をした男は極めて紳士的に引き下がった。だからこそ直後に競りに出すために送り出した仔馬たちが、牧童もろとも姿を消したという一報を受けた時も、その時はまさか彼の仕業とは夢にも思わずいたものだ。

『考えは変わったかな、ミス・メイフィールド?』

 だが数週間後に再度シャンティの元を訪ねたアラステアが、今しがたと同じ薄ら笑いを浮かべながらそう聞いた時、この男は想像より遥かに危険だということを知った。そんな相手にどういう理由でか己が身を求められている、それはまだ20歳にもならぬ娘には恐ろしいものでしかない。その場に居合わせた父ライアンは塩でも撒きかねん威勢で、2度と顔を見せるなと激昂してアラステアを罵ったが、翌日の朝には100頭の牛が牛舎から姿を消した。執拗に銃弾を撃ち込まれた1頭の仔牛の死骸が、牧場の柵に括り付けてあったことが何を意味するのか、誰もが理解せざるを得なかったことは言うまでもないだろう。
 メイフィールド牧場とて暴挙を野放しにしたわけではなく、町の保安官に洗いざらいを知らせ被害を届け出たが、不審な出来事の裏で糸を引く人物が存在しても、犯行は常に確たる証拠を残さずに行われていた。それはすなわち問題の男が捜査の目を謀れるほど、各種の犯罪行為に精通していることを示している。単なる悪人以上の者に目をつけられてはたまらないと、自らここを離れていったカウボーイたちも少なくはない。だんだんと人が疎らになった食堂の席を眺めながら、ふと父が見せた寂しげな顔をシャンティはまだ覚えている。
 時折姿を見せる度に持参金の額を釣り上げては、全ての面倒ごとを引き受けると迫るアラステアに対し、結婚することはできないと娘が何度も繰り返す度、彼女の愛した牧場は家畜を失い、人を失い、返却は不可能と思われる負債を背負うまでに至った。シャンティは自然に焼け落ちたはずのない鶏舎で涙しつつ、自分さえはいと言えば悪夢を断てるのではと悩んだものだ。この牧場が両親の夢と努力の結晶であることを、たった1人の娘である彼女は誰よりもよく知っていた。それを自分の選択で失わせてしまう無慈悲な事実に、19歳になったばかりのシャンティは耐えられなかったのだ。
 自分がアラステアのものになれば何もかも元通りになる、そんな都合のいい相手ではないことは十分わかっていた。しかし少しでも望みがあるならばとそう申し出た娘に、病床にあったライアンの心はいかばかりだっただろうか。父は酷く悲しそうなまなざしでシャンティの目を見つめると、小さな子供に教え諭す時のようにそっと語りかけた。

「大きくなったと思ったが、お前はやっぱりまだ子供だな。お前を差し出して終わりにしようとなんて誰が思うもんか。牧場の権利書が欲しいならそんなものあいつにくれてやれ。本当に護りたいものはそんな紙切れ1枚じゃないんだ」
「お父さん、だけど――」
「いいかシャンティ、これはもうお前1人でどうにかなる話じゃない。俺の目の黒いうちは娘を悪党に渡したりしないさ。お前が幸せになれる相手を見つけられるようになるまで、まだお前の母親のサリーのところへ行くつもりもないしな……」

 そう言っていたライアンも既に命尽きてこの世にはいない。今やシャンティは登記簿に名を記された牧場主となり、傍若無人な振る舞いに怯えているわけにはいかないのだ。この牧場の全てのものはそれが人であれ動物であれ、彼女が自身の信念の元に護らねばならないのだから。

「ミスター・バロウズ、ずいぶんと荒っぽいお訪ねですがご用件はお伺いします」

 力では敵わないことなど最初から誰もがわかっている。さりとて言われるがまま好き放題にさせておくつもりもない。例えどんなに辛い出来事がこの先に待ち受けていようと、その目を反らさず立ち向かうための覚悟はとうに決まっている。

「そうつれなく呼んでくれるな、お前の亭主になる男だぞ? 用件はこの3年の間もう何度も伝えてる通り――“お前が欲しい”、それだけよ」
「てめえ、よくもそんな口を……!」

 それを聞いて妹分を自身の背に庇うのはクライヴだ。赤い髪の青年は今にも飛びかかりそうに低く唸り、怒りに燃える褐色の眸で相手を強く睨みつける。だがもはや残忍な本性を隠そうともせぬアラステアは、血気盛んな若いカウボーイを歯牙にもかけずこう続けた。

「シャンティ、犬は犬らしく首輪でもつけて伏せでもさせときな。まあ、お前のものはいずれこの俺のものになる運命だ。生意気な犬なら今から躾け直しておくのも悪くねえ」
「――ッこの野郎!」
「やめて!」

 相手の意図に思い至ったシャンティは大声で叫んだが、クライヴが銃を抜くより早く手下の弾が肩を撃ち抜く。

「ぐ……!」
「クライヴ!!」
「は、鉛玉の味はどうだ? 女の前に突っ立ってりゃ五体満足とでも思ったなら、そいつはちょいと俺を見くびりすぎだろうがよ……笑わせるぜ」

 悲鳴を上げて青年に駆け寄る娘を満足気に眺め、死神めいた眼帯の男はそう言いながら馬を降りた。

「シャンティ、今日こそお前の口からいい返事を聞こうじゃねえか! 場合によっちゃここの男共も死なずに済むかもわからんぞ?」
「……!」

 呻くクライヴを足蹴にし、アラステアはシャンティの腕を引っ張り上げ目の前に立たせる。そして脅迫の言葉を交えて彼女の顎に手をかけると、背けた顔をこちらに向けさせて真っ直ぐにその目を見つめた――零れそうな涙を必死に堪えている鳶色の眸を。

「お前は俺の女だ。もうこれ以上待つのは御免だぜ」

 そう告げた男の腕に両手をかけシャンティは抗ったが、一筋の涙が白い頬を伝い乾いた地面へ落ちた。