牧場の朝は早く、誰もが薄暗いうちに目を覚ましては自分の仕事に取りかかった。寝ずの番を終えたクライヴは絞った乳を母屋へと運び、ゴードンとテッドは牧草地へ牛や馬を連れてゆき放す。無駄のない慣れた動きで手早く厩舎の中を掃除しては、新たに乾いた藁をフォークで敷き詰めている2人の傍で、やはり手伝いを断られたレオンは愛馬の世話をしていた。

『このあたりは礫も多くて馬の脚には負担がかかります。よければこれを使ってください』

 今朝方階下に降りた彼は女牧場主と鉢合わせ、スチールケースに入った馬用の軟膏を渡されている。小さな蓋を開ければそれからは淡く薬草の香りがし、乳白色の中身がかなりの上物なことはすぐに知れた。分不相応なもてなしにも落ち着かないと断ったものの、若い娘は笑いながら首を横に振るとこう言ったのだ。

「高価なものだとお思いでしたら遠慮なんてしないでください。作ったのは私ですから」
「何だって?」
「あなたの馬はご存知の通りとても素晴らしい馬ですので、少しでも長く走れるようにこれを塗ってあげてほしいんです」

 マースローの黒檀の蹄は蹄鉄こそ落ちてはいないが、よく見れば乾燥からくる初期のひび割れの兆候が見える。彼女は短い間にそのことに気がついていたのだろうか? エプロンドレスに身を包み、血を分けた娘や妹、はては深窓の聖女めいて牧童に護られているシャンティ。だが本当はずっと成熟した考えの持ち主なのでは……? その唇から直に伝えられた年齢が真実ならば、もはや彼女は祝福され夫を持つこともできるのだから。
 およそ牧場と名がつく場所ならこの時間は活気にあふれ、賑やかにも騒がしく1日の活動が始まるものだが、空いた厩舎も多いメイフィールド牧場は何とも静かだ。だからこそそれを打ち壊す轟音は酷く場違いに響き、誰もが一瞬で迫る危険を感じ取らざるを得なかった。

「――バロウズか!」

 続けざまに正門の方角から聞こえた3発の銃声、それに唸るような声を上げたのは牧童頭の男だ。その青い目には憎しみにも似た烈々たる怒りが滲み、もう1人は戸口から素早く北の柵の方角を見やる。

「テッド、お前は母屋だ!」
「おう!」

 ゴードンの声に振り向きもせずテッドが駆け出していった時、砕かれた柵の破片を蹴散らして5頭の馬が現れた。先頭を切る馬は群を抜いて見事な馬体をしていたが、遠目にも鬣がまばらに抜けていることが確認できる。哀れな馬がその背に乗せるのはライフルを広い肩にかけ、黒い眼帯で右眼を隠した堅気ではない男だった。勝手知ったると言わんばかりに母屋を目指す者とは別に、2頭の馬が一味を外れ馬小屋の方へと向かってくる。それを見たレオンは身を屈め低い声で老人に尋ねた。

「……あいつらは?」
「お前は余所者だ、関係ねえ。死にたくなけりゃ馬と一緒にここで縮こまって引っ込んでな」

 牧童頭は腰に下げた銃の弾数を確かめながら、二手に別れたならず者たちに舌打ちして小さく唸る。

「今日こそ小娘と馬を両方いただこうって腹づもりか。生憎だがそうはさせんぞ」

 あまりにも突然訪れた事態に驚きこそしていたが、余所者と呼ばれた男も危ない目には何度も遭っていた。それでもこうして生き伸びられる腕前を持っているからこそ、静かな興奮が研ぎ澄ます感覚で状況を見極める。無法地帯でもない限りこんな闖入者はそうそういない。この牧場からも1時間足らずで小さな町に行き着き、保安官が辺り一帯を保護下にしているのは明らかだ。普通ならばここまで派手な襲撃など想定はしないだろう。それでいて何の迷いもなく賊に対応できるということ、それこそがレオンの感じていた牧場の不自然さの秘密――急激に寂れたと思われる理由の核心に違いない。

「おい若造、少しでも恩義があるならそこにいるその馬を護りやがれ。そいつはあの娘の馬だ」

 馬を降りた2人の男は悠々とこちらに歩いてくる。敵から注意を逸らさぬまま示された先を見た旅人は、そこにいた思いがけないものに思わず黒い目を瞬いた。

「……こいつは……!」

 マースローの隣の馬房、そこにいたのはよく手入れされた上品な栗毛の牝馬めすうまだ。持ち主の髪と同じ色の毛並みも美しく整えられ、四肢と鼻先に加えて額にも白い斑を抱いている。自分の馬が青鹿毛一色で月の出ない夜だとすれば、こちらはまさに闇夜を温かく照らす星の光のようだ。なぜその存在に今の今まで気づかずにいられたのだろう? 少ないとは言え厩舎に残された馬は皆どれも良馬で、この牧場が馬の繁殖に秀でているのは間違いない。中でもその栗毛の若駒は佇まいまでが洗練され、何も知らぬ素人さえ惹きつけるだろう魅力を持っている。

「お前も馬乗りならそいつの価値はおよそ予想がつくだろう。あの盗っ人共は小娘とその馬が欲しくてたまらんのよ……それこそどんな手段を使っても死体の山を築いてもな」

 厩舎の奥に積まれた干し草の山の陰から銃を構え、暴漢の眉間に照準を合わせたままゴードンは続けた。シャンティの父親代わりとも自負しているその男にとって、我が子にも等しいだろう彼女を庇護するのに理由はいらない。ましてや自身の目の前で悪漢に手を伸ばされるとなれば、どんな屈辱よりもなお許し難いのはもちろん明らかだ。
 それでもシャンティをテッドとクライヴに託しこの場に残るは、ミルキーウェイと名づけられた彼女の馬を護るだけでなく、老いた身で足手まといになることを避ける意味もあったのだろう。本来ならば誰よりも母屋へ駆けつけたいに違いないが、レオンは老人のその覚悟に確かな勇気を感じ取った。

「ケツの青いガキじゃねえんだ、お前のお守りはしてられねえぜ」
「さすがにそんな歳じゃないさ……そのくらい何とかしてみせる。あんな荒くれ男たちと一緒にされちゃこちらもたまらんよ、これでも俺は人並みに礼儀も作法も弁えてるんでね。受けた恩を返す義理もな」

 一触即発の事態が引き起こされるほんの数秒前、男はこの場にそぐわないような軽口をゴードンに返す。それは彼のメイフィールド牧場へ対する返礼でもあり、これから始まる荒事の幕開けを告げる言葉でもあった。戸口からは侵入者たちの影が厩舎の中に長く伸び、命を奪うことに些かの躊躇もない声で呼びかける。

「おい、どうせここにもいるんだろ? 相手してやるから出て来いよ。馬泥棒だけじゃ物足りねえ」
「せっかく来てやったんだ、多少は楽しませてもらわねえとな」

 いつ何時でも引き金を引ける濃い髭面の男たちは、硝煙の臭いに飢えた様子で泥だらけの足を進めた。本隊は母屋にいるシャンティの元へとそのまま突き進み、こちらの別働隊でミルキーウェイを捕らえるつもりだろう。2人のならず者たちは袋のネズミを追い詰めるが如く、レオンと牧童頭が身を潜めた場所へ距離を詰めていく。その前へと飛び出して銃の引き金を引くことは容易いが、相手が1人でない分乱戦となればこちらの身も危ない。何発も撃ち合う事態となれば流れ弾が馬にも当たり、被害が避けられないともなれば選ぶべき道は1つだけだ。

「栗毛に白い斑、ボスが言ってた馬はこいつだったか? ――っ、おい!」

 銃を持ったまま1人の男がミルキーウェイの更に先、値段のつけようがないほど見事な黒い馬に声を上げる。そしてもう1人もほんの僅かマースローに目を向けた瞬間、1つの銃から2発の弾が彼らの身に撃ち込まれていた。