「手を……離して、ください……!」
「聞きたい返事は1つだ。俺はそう気が長くもねえからな」

 精一杯抵抗しても、男の腕が緩むことはない。今や娘の両目からは抑えきれない涙があふれ出し、アラステアは空いたもう片方の手でぞんざいにそれを拭う。

「そんな顔もそそるじゃねえか、お前は本当にいい女だ。たっぷり可愛がってやるぜ……いくらでもガキを産ませてやる」
「嫌……やめて、っ!」

 ぐっと首を引き絞られたシャンティの息が一瞬止まるが、いくら辱めを受けても、相手に命が保障されているのもまた彼女1人なのだ。この悪漢のシャンティに対する思い入れは異様なほどで、短気な彼が数年に渡り足を運んでいること自体、愛情という名前の感情に類するものには違いない。その本来の意味からかけ離れたものになり果ててはいても、アラステアはこれ以上ないほどに強く彼女を愛していた。

「シャンティ……言ったはずだぞ? 聞きたい返事は1つだとな」

 口づけられそうなほど近くで囁かれるは脅しの言葉。しかしそれを受け入れたところで生き残れるのは娘だけだ。そして拒絶してもなおその結果に変わりはないとするならば、自分がどちらを選ぶべきかなど悩む余地さえありはしない。仲間の尊敬を一身に集めていた父を亡くした今、“本当に護りたいもの”を受け継いだのは彼の実の娘、メイフィールド家の相続者たるシャンティただ1人なのだから。

「あなたのそのお話を……お受けすることはできません!」

 娘が小さな声で、それでもはっきりとそう告げた瞬間、男の灰色の左眼は剃刀のような光を帯びる。アラステアは決して彼女に手を上げるような真似はしないが、殺意としか形容できない気配が強烈に滲んでいた。その様は一味の男たちさえ思わず身震いするほどで、余計な動きをすれば彼は手下をも冷酷に撃っただろう。

「俺が見込んだ通りだ。一筋縄じゃいかねえ女だぜ」

 低い声を響かせてシャンティから手を離したアラステアは、よろめく彼女と距離を取るように軽く数歩分突き放す。そしておもむろにその手を長身痩躯の自身の背に回し、鈍色の光を放つライフルをクライヴの頭へ当てた。

「こんな場所で女独りになりゃあ寂しかろうが安心しな。お前には俺がいればいい……他の奴に用なんざねえ!」
「――っ!」

 娘は死に物狂いでアラステアの銃へと手を伸ばしたが、時既に遅く1発の銃声がシャンティの耳に届く。だがその鋭い音は目の前の長銃からのものではない。

「チ……仕留め損ないか?」

 すぐに振り向いた男の前で手下が馬から転げ落ちる。もう1人のならず者は下馬して闇雲に弾を放ったが、その最後の1発と同時に肩を撃たれ地面へ倒れた。

「死にたがりがもう1匹か。おい、望み通りにしてやるよ!」

 真っ直ぐ厩舎の方を向き、浅黒い顔を凶悪に歪めたアラステアが声を上げる。しかしそれに動じた様子もなく静かに返事をした声は、この牧場で働く者たちのうちの誰でもなかったのだ。

「ご指名とあらば仕方ない。だが乳臭い小娘を脅して手篭めにしようとなんぞする、いい趣味をした奴とやり合うつもりはこっちにはないんだがね……」
「!!」

 あからさまな挑発に肩を震わせる悪人の傍らで、シャンティは鳩尾がぞっとするほど冷たくなるのを感じた。それがレオンの声であることなど考えなくてももうわかる。あの時クライヴが言ったように滞在を断っていたなら、少なくともこんな出来事に巻き込まずに済んでいただろうに。
 いっそ見捨てて出て行ってくれればと願わずにはいられないが、客人をみすみす死なせることなど決してあってはならない。彼は、レオン・ブラッドリーは偶然ここに立ち寄っただけで、常に死を覚悟しているこの牧場の者ではないのだから。

「だめ、すぐに逃げて! ここに出てきてはいけません――あっ!」

 そう叫んだ娘をアラステアは振り解くように突き飛ばし、肩まであるその砂色の髪は揺らめくように風になびく。そして男は薄い唇の端を冷酷に持ち上げると、若干銃口を斜めにする独特の構えのまま言った。

「いい度胸だ、ハンデをやろう。俺は男らしく出てこいなんて戯言はほざいたりしねえ」

 あらゆる偽証を隠れ蓑にしてきたその男の正体は、荒野を跋扈する法に外れたならず者たちの元締めだ。保安官を銃の暴発に見せかけて殺すことも容易い、他人の命を何とも思わぬ真の悪人と言ってもいい。幼い頃から違法な行為で生き延びてきたアラステアは、力こそ何にも勝る絶対の真理であると知っている。彼は底辺からのし上がり君臨する者となる過程で、敵対する相手を追い詰め残酷に殺すことにかけては、自身が持つ天性の能力を自覚しまた利用してきた。情けなく倒れ伏す手下の撃たれている傷の向きを見れば、不遜な相手が身を潜めている場所も見当がついている。
 ライフルは拳銃のようにその形を隠すことはできない。だからこそアラステアが手に長銃を握りしめている限り、彼の命を奪うに至る者は1人たりともいなかった。逃げ隠れなどせずとも絶対的な力の差を見せつける、それはアラステアが長い銃を好む何よりの理由になる。その引き金を引くことは男にとって愉しい時間だった。彼の怒りを買った挙句、逃げ場をなくし惨めな死を悟った相手の無様な顔ほど、掲げた杯に注いだ酒の味を旨くしてくれるものもない。
 いつしか“死神”の2つ名で知られるようになったその腕は、無法者たちさえ震え上がらせるほどに狂気に満ちていた。

「てめえの名なんぞ聞かねえぜ。どうせすぐ死んじまうんだからよ」
「まあそう言うな、負ける相手の名前くらい聞いた方がいい」

 心臓が止まってしまいそうな言葉の応酬を聞きながら、シャンティは懸命にクライヴを母屋の方へ引きずっていく。ひとまず見えない相手の始末を優先したアラステアだが、かと言って彼女を逃すつもりなど欠片たりともないだろう。
 3年という月日の間に受けた様々な仕打ちにより、その男がどれほど恐ろしいのかは知っていたつもりだった。さりとて間近で剥き出しの殺意を直接突きつけられると、抵抗しようという気力など根こそぎ奪い取られてしまう。アラステアはゴードンを、テッドを、クライヴを躊躇なく殺す。そうしようと思えばシャンティの首を折ることもできたはずだ――尤も、彼は手にした銃を使う方をより好むだろうが。

「俺はレオン・ブラッドリーだ。次にお前の名も聞いておこう、一応形だけでも礼儀ってやつを大事にしたいんでな」
「……ブラッドリー?」

 何かを思い出そうとするようにアラステアが呟いた時、母屋の中から伸ばされた腕がクライヴを物陰へ隠す。

「テディ……!」
「お嬢、こっちへ!」

 潜めた声で交わされる言葉の何と温かいことだろう。場合によっては別れの言葉も交わさずに果てる覚悟でも、再びその頬を伝う涙を止める術などあるだろうか?
 しかしこうして生きている喜びを噛みしめるのはまだ早い。テッドは戸口の陰で身を屈めシャンティを背に庇いながら、自らの力及ばぬ苦渋に満ちた表情でこう告げる。

「くそ……こうなっちまえばもう俺たちには打つ手なんてなしだ。奴さんが必ず勝つと信じて祈るしかないぜ、お嬢」

 勝負は始まってしまった。もう誰にも彼らを止められない。決着がついた時に立っているのは果たしてどちらだろうか……?

「ミスター・ブラッドリー……!」

 我知らず娘の唇から零れ落ちたのはその者の名。4人の命は今や1人の流れ者の手に懸かっていた。こんな騒動に背を向けて立ち去ることもきっとできたはずの、出逢ったばかりと言っても差し支えのない黒髪の男に。