シャンティは灯りも点けずにドアのすぐ傍で立ち尽くしたまま、レオンの部屋の扉が乱暴に閉められる音を聞いていた。夏だというのに酷く寒い。身体ではなく心の芯が凍えそうなほどに震えている。
 眠っている彼の頬へと密かに口づけてしまったことを、まだうら若い娘は日が経つほどに後悔し始めていた。“別れたらそこでおしまいだ”――今しがたレオンの口から言われたそれは十分知っている。だからこそせめて1つだけでも彼に触れた思い出が欲しく、さりとて面と向かって本人に頼み込む勇気もなければ、偶然が折り重なった瞬間を逃したくはなかったのだ。
 しかしキスを捧げた時に身体中を駆け巡った想いは、その日からもう2度と元いた檻の中へ戻ろうとはしない。心を寄せる相手と何食わぬ顔で接し続けることは、自業自得とは言えそれから実に難しくなってしまった。レオンの姿を目にすれば、彼の低い声を耳にすれば、シャンティの心と身体の全ては深い愛に支配されて、今すぐにレオンへと何もかもを打ち明けてしまいそうになる。
 それでもこれだけ多くの隔たりを抱えている立場ならば、弱いところなど見せればますます子供扱いされるだけだ。それ故に彼の前では涙を見せないよう気にしてきたが、昼間の広場でレオンに涙を見られてしまってからこちら、彼の表情はどこか不機嫌で口数も少ない気がする。きっとめそめそと泣いているような小娘は気に障るのだろう。そうでなければ隣の席は空いているとばかりに無視をして、更には彼女への当てつけのようにプルーデンスの頬にだけ……。

「……っ!」

 シャンティは固く目を瞑る。それでもその光景はあまりにもはっきりと脳裏に焼きつき、どんなに目を反らしたいと思っても瞬きさえできなかった。あの時の相手の驚き、そして幸せに満ちた表情。同じ相手に想いを寄せている身としては痛いほどわかる。

“でも……仕方ないじゃない。自分からは何も言えないくせに期待してばかりの私と、物怖じしないでぶつかっていけるあの人とは違うんだもの”

 だがどんなに自分自身へそう言い聞かせようとしたところで、尽きず込み上げる醜い感情を消し去ることなどできない。彼女はプルーデンスという存在の全てに嫉妬していた。自分よりも遥かに長くレオンを知っているという彼女に、恐ろしさにも似た脅威と限りない羨望を感じたのだ。その恐れからこうして無理に同席を申し出てしまったが、こんな思いをするのなら宿にいた方がよかったのだろうか? それでも行かなければ彼らが気になって仕方なかったはずで、どちらを選んだとしてもシャンティが傷つくことは避けられない。
 彼はプルーデンスとの会話を楽しんでいたように思えた。だからこそ彼らの邪魔をして鬱陶しがられたらと思うと、自分からレオンへ声をかけることはついぞできなかったのだ。それでいて隣で交わされる流れ者と歌い手の会話に、一所懸命に耳をそばだてずにはいられなかったのだから、クリスティンへの対応はさぞかし失礼なものだっただろう。
 そしてレオンの気が引けない理由は何も歳のせいではなく、やはり自分に魅力がないことが原因だとも実感した。プルーデンスはシャンティとそう歳も変わらないように見えたが、それを理由に想い人に近づく努力を放棄したりせず、顔を真っ赤に染めつつも恋心を隠さず挑んでいける。そんな勇気や度胸もなく、かと言って諦められもしない、嫉妬ばかりが1人前の自分と比べてはおこがましい。
 願わくば彼に好かれたい、だがそれ以上に嫌われたくない。方や自由な身の歌い手、方や借金にまみれた娘。2人の置かれた立場は天と地ほどにかけ離れてはいても、レオンの黒い目には他でもない自分を捉えてほしかった。あの低い声で名を呼ばれ、あんな風に抱き寄せられるのも、その口づけを受けられるのもこの世で自分1人でありたい。そんな夢を見ていたいと願うならばどうすればよかったのか、彼女が出した答えは失望されないよう強く在ることだ。シャンティは夢にも思わない――まさかその考えこそが彼をこんなにも苦しめているとは。

“……ミスター・ブラッドリー……”

 もう絶対にレオンの前で泣き顔など晒してはいけない。焦りと不安はますます自分の首を絞めると知っていても、まるで別人のように冷たい彼と旅をするくらいならば、フォートヴィルまでの行程を独りで辛さに耐える方がいい。
 いつか星空の下でレオンの内面に触れた時のように、また彼と他愛ない言葉を交わせる日はやってくるだろうか? もはや出逢った時よりも離れてしまっている2人の距離が、再び唇が触れるほど近づくことなどあるのだろうか……? どんなに心が傷つき悲しみに打ち拉がれていようとも、レオンを愛する限り彼女はそれを信じて祈るしかない。残りも僅かな日々で少しでも良い思い出が残せるよう、今の自分にできることを1つずつしっかりとこなしながら。

「ブラッドリー、昨夜は4人でずいぶんと盛り上がったのか?」
「ん? ああ、おかげさまでな。安心しな、あんたたちのお姫さんからは目を離しとらん」
「だいぶわかってきたじゃねえか。こっちが聞こうとする前に答えてくれるようになったとはな」

 ほとんど一睡もできずに朝を迎えてしまったシャンティは、準備を終えて外に出るなりそんな会話を耳にしてしまう。それはもはやこの旅の決まり文句の1つになってはいたが、彼はあくまでも“用心棒”なのだと言われているかのようで、いつもはどこか嬉しいその言葉も今朝ばかりは苦しかった。しかしそんな素振りをレオンの前で見せることはもうできない。

「おはようございます、ミスター・ブラッドリー」

 彼女は自身にできる精一杯の笑顔で挨拶をした。だがそれは懸命に繕った上辺だけの仮面に過ぎない。本来ならば彼の顔を見るのも辛くてできぬほどなのだ。何も偽らずにいれば視線を合わせることもできないだろう。それでも想い人の傍に留まりたいという一心だけで、震えそうな身体を戒め気を強く持っているというのに、なぜレオンは何もかもを見透かすようなまなざしを向けながら、なおシャンティに何かを言いたそうな怪訝な顔をするのだろう。

「シャンティ、ずいぶんご機嫌だな」
「ええ、楽しかったんだもの。時間が過ぎるのがあまりにも早かったから驚いたくらい」

 料理屋では永遠に時計が進まないような気がしたのに、笑ってさらりと嘘を言える自分に哀しさが胸をよぎる。しかしテッドやクライヴといつものように雑談をしていても、黒髪の男は1度たりとも彼女に声をかけなかった。時折彼のものと思われる強い視線を感じはするが、目を上げれば既にその眸はシャンティから逸らされた後だ。
 ならばまたその目に正面から自分を映してもらえるよう、今まで以上に気力を振り絞って努力を重ねなければ。元々レオンとはフォートヴィルまでしか一緒にいられないのだ、せめて別れる時には笑顔で握手を交わせる仲でいたい――心では涙していても。

「さあ、そろそろ行きましょう」

 それから3日の間は通り雨に降られたりはしたものの、大きな障害にはならず比較的順調な道が続く。そして不明瞭な地形について尋ねるために寄った村で、一行は思いもよらない言葉を村人に投げかけられた。

「何だ、まだフォートヴィルなんかに行こうとしてる奴がいたのか? 馬鹿な真似はここらでやめとけ、あそこはもう終わった街なんだ。金が出るなんて噂は端から嘘っぱちだったんだからな」