「もう1度今夜の大成功に、乾杯!」
「乾杯!」

 並んだ酒瓶、湯気の立つ大皿。もう何度目かわからないその音頭にも、そこかしこで掲げられるジョッキやグラスの数は減る様子を見せない。日頃は外に飲みに出かける者までもが今夜は食堂の椅子に腰を下ろし、一座始まって以来の盛況のうちに幕を閉じた公演へとまた新たな1杯を捧げている。誰も彼もが笑顔を絶やさず、興奮冷めやらぬ団員たちは夜が更けてなお歓喜に酔いしれていた。

「でも団長、一体いつ手品を練習してたんです? 昔はこういう場でも披露してたと聞きましたけど、まさか今でもあんな腕前を保ったままとは……」
「実のところ私のマジックは大人数向けではないんだが、場所を選ばず大した道具も必要ないのが強みでね。ほんの少しの時間があればそう難しいことじゃない」

 入団後の日も浅い楽団員から驚きも露わに尋ねられ、自身もグラスを傾けていたダリウスは穏やかな声でその質問に答えた。開幕直前に演者が出ていくという前代未聞の事件に続き、長年舞台を離れていた団長が再び人前で演じるとなれば、それを不安に思う者も当然ながらいただろう。だが団員たちは彼らの長と強い絆で結ばれており、それに亀裂をもたらすことなど何人たりともできはしない。

「アレックスでもここまでは盛り上げられなかったんじゃない?」
「そうだな。やっぱり子供の喜ぶ顔が俺は1番嬉しいよ」
「団長、もう本格的に復帰しちゃえばいいのに」

 別方向からも冷やかし混じりの声が飛び、手にした杯の中身を干しながら思わず団長は苦笑する。一座の演者と責任者、そのどちらも片手間にできるような仕事ではないことは彼らとて十分承知の上だ。それでもこうして最大級の賛辞を贈ってくれることは演者冥利に尽きるもので、ダリウスはしっかりと首を横に振りながらも微かにその口角を上げた。
 マジシャンとして感じる手応えがなくなったわけではなくとも、このサーカスを旗揚げした理由を思えば、団長という立場が与えてくれる喜びの大きさには敵わない。付随する責任や重圧の分を差し引いたところで、今の彼が昔より遥かに満たされているということは紛れもない事実なのだから。

「しかし何が1番びっくりしたって、団長がいきなりメロディの手にキスしたことだよな」
「ああ。他のサーカスならともかく、うちの団長に限っては完全に予想外だったよ」

 宴もたけなわ、徐々に席を外し部屋に戻る者も出始めた頃。残った団員たちはダリウスが花形スターの指先に贈った口づけの話題で盛り上がっていたが、それをきっかけに2人の仲を訝しむ者は誰もいなかった。実際サーカスの舞台でああいったことは日常茶飯事であり、取り立てて受け手との関係を騒ぎ立てるようなものでもない。彼らの驚きも生真面目な団長がそんな行動を取ったことに対してであって、例え相手が違っていたとしても同じく話題に上っていただろう。

“思い込みとは何とも恐ろしいものだな……私たちにとってはありがたいのかもしれないが”

 食堂の隅で一息つきながらそれを聞いていたダリウスは内心でほっと胸を撫で下ろし、同時に確固たる先入観というものがいかに人の目を曇らせてしまうのかに思いを巡らせる。入団した時でこそまだ幼い少女だったとは言え、それから10年の時が経った今、メロディは既に真摯な愛情を育むに足る大人の女性に成長した。彼女に想いを寄せる者が引きも切らない理由はまさにそこにあるわけだが、一座に在籍して長い者ほど、2人が恋人同士だなどとは夢にも思っていないはずだ。
 メロディに接する時の態度を昔から一貫して変えないことが、その心境に何の変化もないことを示すわけではないと言うのに、幸か不幸か団員たちは彼らの長が魅惑の花形に恋をするなどあり得ないと信じているらしい。彼女がダリウスに憧れてこの世界に入ったこともサーカス内では周知の事実だったが、なまじそれを知っているがためにメロディからの好意でさえも、昔と同じ純粋な敬愛故だと思い込んでしまうのだろう。加えて倍ほど歳が離れていればそう考えてしまうのも頷ける……とは言え、その恋人候補として完全に予想外の存在として扱われていることは物悲しくもあるのだが。

“本当はこの機会にメロディとのことを打ち明けてしまえれば良かったんだが、仕方ない”

 それでも数ある困難を乗り越え、2人は愛し合い結ばれた。今回の成功で彼女の力は広く世に知れ渡り、色眼鏡で見られる心配もなくなった今こそ、2人の関係を明かすには最適だったに違いない。だがアレックスが執拗なほどメロディにつきまとっていたことは誰もが認めるところであり、本当は嫉妬のあまりに彼を追い出したのではないかと団長自身が疑われるならまだしも、花形の座を脅かすかもしれない相手を彼女に乞われて放逐したというような、根も葉もない噂が流れでもしたらメロディは確実に傷ついてしまうだろう。
 ほとぼりが冷めるまでもうしばらくの辛抱を強いてしまうことには申し訳なさを感じずにいられないが、ダリウスにとって彼女以上に大切なものなど何もない。それでも恋人が心からの笑顔でいられるよう、団長の口から仲間たちに真実を告げる日はそう遠くないだろう。メロディにはどんな時にも幸福を感じていてほしい、彼の願いはただその1点のみに尽きるのだから。

「――あれ、団長も帰っちゃうんですか?」

 終わらない賑わいの中でダリウスが外へと続く扉を開こうとした時、それに気づいた団員の1人が慌てて彼に声をかける。時刻は既に深夜を回っていたが、仕事熱心な団長は宴の後とて日課を疎かにすることはない。

「見回りに出られないほど飲み過ぎる前に私は下がらせてもらうとするよ。せっかくの機会だ、君たちはもう少し楽しんでいるといい」

 ダリウスは薄手のコートの襟を立てながらそう返し、最後にちらりと食堂の奥にいる自らの恋人を遠目に見やった。悲しいかな、自身も団員たちから引き留められてばかりだった団長は、終始大勢の同僚たちに囲まれているメロディと言葉1つ交わせていない。まだ残っている多くの団員たちをかき分け鍵を渡すのも難しく、丁度よく彼女を呼び出そうという不埒な者もいないとなれば、残念ながら今夜の逢瀬は断念せざるを得ないだろう。
 どこか寂しげなラベンダーブルーの眸に後ろ髪を引かれつつ、その場を後にしたダリウスは火を灯したランプを片手に夜のサーカスを確認して回る。公演の最終日だからと言って必ずしも2人が逢えるという保証はなく、これまでにもこういったことがなかったわけではないのだが、正直に言えばやはりこんな夜には恋人の温もりが恋しいものだ。公演の熱気が嘘のように静まり返った天幕の中、空いた客席に腰を下ろした彼が肩を落とすのも無理はない。全てのチェックを終える頃にも未練がましいため息は尽きず、自室へ向かう足取りさえも心なしか重くなる。
 ――だが、ダリウスの長く波乱に満ちた1日はまだ終わってはいなかったのだ。

「……?」

 部屋の近くまで戻ってきた彼の視界に映る見慣れた人影。それが誰なのかに気づいた瞬間、ダリウスの指先が微かに震える。

「なぜ……君がここに?」

 本人を目の前にしてもそんなことしか言えない自分が何とも歯痒くもどかしい。だがメロディはその手を伸ばして優しく彼の頬に触れると、花が綻ぶような微笑みを浮かべてダリウスにそっと囁いた。

「あなたに、逢いたくて」