舞台に上がると決めたダリウスに課された仕事は明確だった。1つは訪れた人々を失望させず公演を楽しんでもらうこと。そしてもう1つは自らの手品を用いてアレックスよりも観客を沸かせ、誰かを喜ばせたいと願う気持ちが本当の笑顔を引き出せるという自身の信念を証明することだ。
 若き天才が一座にやって来た時からずっと覚えていた違和感、それを生じさせていたものが恋敵への苦い嫉妬ではなく、決定的な価値観の違いだったと知った瞬間は衝撃だった。しかしアレッサンドロ・ジラルディーノがいくら卓越した腕の持ち主だとしても、根本的に異質な彼を招き入れてしまったのはダリウスだ。もっと恋人と一緒に過ごしたいという密かな夢はあまりにも甘美で、心のどこかが感じ取った疑念に我知らず目を瞑っていたのだろうか。だがその結果として他ならぬ彼女が危険に晒されることとなったのだから、本末転倒甚だしいどころか後悔してもしきれない。

『団長はあなたよりずっと優れたマジシャンです!』

 それでもメロディがアレックスに面と向かってそうはっきりと告げた時、ダリウスは彼女の行動と言葉に深く限りない愛を感じた。絶えず脅かされていただけでも心労は計り知れないだろうに、その身に直接手を上げられてもなお恋人のために立ち向かう――そんな女性がありふれていないことは世間を見ればすぐにわかる。そして稀代の新人の並外れた能力は誰もが認めるところだとしても、自意識で飾り立てられた奇術ではメロディを決して欺けない。彼女の前では最高のマジシャンであり続けたいと願うダリウスにとって、その言葉がどれほど心に響いたのかは容易く想像できるだろう。
 メロディは幼い頃から今も変わらず彼の手品に心躍らせ、同じ理想を胸に抱いて信頼を寄せてくれている。彼女の言葉が嘘ではないと自ら証を立てるため、再び1人の手品師に戻ることで揺るぎない想いに報いたい。演目の穴を埋めるだけなら代役を立てれば事足りただろうが、一座の根幹を揺るがすような挑戦を叩きつけられた以上、今夜演者としてステージに立つべきはダリウス1人しかいなかった。

“メロディ、どうか見ていてくれ。君が傍にいてくれるのなら私はどんなことも必ず成し遂げてみせる”

 想像を絶する緊張感を強いられるような状況にあっても、責任者たる彼の手にかかれば舞台は自分の庭にも等しい。それに生業と肩書きを変えた後でも、小さな手品のアイデアならば至るところに隠れている。この10年あまりもそれらを書きつけ、また誰にも知られず実践し、魔法の原石を磨き上げていくのはダリウスの楽しい息抜きだった。それが愛する恋人の惚れ惚れするような笑顔に変わるのならばなおさらだ。
 その夜披露したマジックは全てメロディのために創ったものばかりであり、それを見つめる観客たちが不思議な温かさを心に覚えたのもあながち偶然というわけではない。響き渡る一際大きな歓声は“魔術師”の健在を讃えてくれるものだったが、見渡す客席にあふれんばかりの笑顔こそが何よりの賞賛となる。
 そして……。

“……メロディ……”

 ラベンダーブルーの優しい眸、そこに輝く喜びの涙。誰よりも愛するたった1人、その想いに応えられたことが彼には何よりも誇らしい。2人が、団員たちが信じたものはやはり間違いではなかったのだ。

「メロディ、次は君の出番だ」

 ダリウスは潤んだまなざしの恋人を呼び寄せいつかのように片膝をつくと、焦がれるその手に唇を寄せながら驚きに沸く中でそう告げる。心ここに在らずといった様子でグレーの眸を見つめていたメロディはそこではっと目を瞬き、慌ててブランコを受け取りながら恥ずかしそうに頬を染めたが、去り際の恋人に微笑みを投げかけてくれる彼女の何と愛しいことか。

「さあ、お堅い団長の意外なエスコートで現れましたるは皆さまご存知一座の花形! いよいよ本公演も今夜で見納めとなりますメロディ・スターリングの空中ブランコをどうぞ最後までお楽しみください!」

 期待をかき立てる司会の言葉と共にブランコは高々と引き上げられ、セレナーデの調べに合わせてメロディは軽やかに宙を舞い始める。洗練された小技の後にはいつもに増して華やかな大技が続き、観客席はあっという間に優美で繊細な演技の虜だ。緩やかな振れから鋭く繰り出される宙返りは軸がぶれることもなく伸びやかで、翼を得た鳥のような彼女を仰ぎ見る人々は感嘆の声を上げずにはいられない。

「他のサーカスは危なっかしい時もあるのに、ここは他所と全然違うな……」
「ママ、あのお姉ちゃんとってもかっこいいね!」

 だがメロディが最初から順風満帆な道を歩んでいたかと言えばそうではなく、その秘められた才能が芽を出すまでには多少の時間を必要とした。さりとて彼女にエアリアルの適性を見出したのは他でもない団長その人であり、素直で真面目な初代の訓練生が数多の失敗を経験しつつも少しずつ成長を重ねていく姿は、彼に人を導く立場の喜びを改めて教えてくれたものだ。
 人一倍の努力を糧に稀有な素質を開花させ、若くして一座の看板曲芸師にまで昇り詰めたメロディは、その称号に恥じない演技をいつも披露し続けてくれている。自身のマジックに今なお拍手が送られ得ると知った後でも、舞台で演じることへの未練がないのは彼女がいてくれるおかげかもしれない。観る者が自然と顔を綻ばせたくなるようなサーカスでありたいという彼の夢を、他の団員たちに先駆けて実現してくれるメロディがいるからこそ、ダリウスはその傍で彼女を支えられることがこんなにも幸福で仕方ないのだから。

「わあ……!」

 誰もが固唾を飲んでその瞬間を待ち侘びる中、メロディは初日と同じく彼女だけが成し遂げられる2連続の宙返りを見事に決める。途端に沸き上がる大歓声は分厚い天幕を揺らすほどで、これほどの反響を得られる演者は未だメロディしかいない。徐々に降ろされていく芯棒の上に腰かけた彼女は満面の笑みで拍手に応え、舞台袖の恋人は言葉にならない感慨で胸を満たしながら眩しそうに目を細めた。

“ああ……メロディ、私はずっと君の虜だ。今までも、これからも……”

 途切れることなく響き続ける歓声の中で演者たちはステージに集合し、その中央には団長のダリウスと降り立ったばかりのメロディが並ぶ。もしこの場で彼女を高く抱き上げ、熱く唇を重ねられたなら――しかし彼の厳格な仕事意識はそんな衝動を許しはしないし、ましてや2人きりの時にだけ見ることができる魅惑的なメロディの姿を他人に明かすつもりもない。

「皆さま、本日はご来場いただき誠にありがとうございました。我々は決して大きなサーカスではありませんが、皆さまの心に残る演技ができるようこれからも精進してまいります。ぜひ団員たちに――私の思いを形にしてくれる素晴らしい仲間たちに、もう1度盛大な拍手を!」

 旗揚げ以来最高の成功を収めた公演の締め括り、総立ちの観客から万雷の拍手が送られる様子はまさに圧巻の一言だ。そして揃って一礼した団員たちが四方八方に手を振りながら心からの感謝を示す中、色とりどりの紙片がどこからかひらりと舞い落ち始め……。

「!」

 それに気づいた人々が辺りを見回す頃には降りしきる花びらのような紙吹雪へと変わり、舞台は再び割れんばかりの歓声に包まれる。終わらない喜びに沸く天幕の中、密かに視線を交わした恋人たちがほんのひと時お互いの指先を絡めたことに気づく者は誰もいなかった。