サーカス――その非日常へと続く天幕の内側で人は覚めない夢を見る。音楽に合わせてステップを踏む熊、何人もの曲芸師たちを軽々と持ち上げる力自慢、休憩の間も並ぶ屋台に響く笑い声は途切れない。居並ぶダンサーの一糸乱れぬ振り付けの後ろからは、軽業師たちが空まで届くような宙返りを披露して舞台を沸かし、道化師が鳴らしたクラッカーの紙テープは流れ星のように降り注ぐ。誰もが魅了されてしまう魔法の時間、それが今宵もとある湖のほとりで賑やかに繰り広げられていた。

「さあ次はいよいよクライマックス、ご存知一座の看板スターが登場いたします! ついに今夜が最後の演技、メロディ・スターリングの空中ブランコをたっぷりとお楽しみくださいませ!」

 司会者の声をかき消さんばかりの拍手が鳴り響くステージの中央、惚れ惚れするような笑顔の娘が客席に向かって一礼する。馴染みの芯棒に腰かけた彼女はひらりと空へ舞い上がり、観客の視線を一身に浴びながらいくつものブランコを飛び渡ってみせた。それは一見誰にでもできそうなほど軽々と成されたものではあったが、高度な技をあたかも簡単に思わせることこそ難しいものだ。観衆の期待が頂点に達した瞬間メロディが2回宙返りを成功させると、彼女の代名詞とも言える大技に大歓声が巻き起こる。

「皆さま、花形スターの見事な勇姿をしかとご覧いただけたでしょうか? それでは最後に今1度、出演者たちへ盛大な拍手をどうぞお願いいたします!」

 ピットの中の楽団員たちはここぞとばかりに腕をふるい、演者が並んだ舞台を彩るは盛大な拍手と賞賛の声だ。中でもブランコ乗りへと送られる声援は一際大きく耳に届き、その日でひとたび役目を終えるメロディは思わず涙ぐむ。そして……。

「――メロディ!」

 満員だった客がはけても熱気冷めやらぬ打ち上げの席上、呼びかける声に振り向いた彼女の視界を色とりどりの花たちが染める。

「今までお疲れさま。これは私たちみんなからよ!」

 両手で抱えなければ持ちきれないほどの大きな花束をオードリーが差し出し、ガラテアがにこやかにそう告げ終わると、団員たちはそれぞれ手を叩いて感動的な場面を囃し立てた。

「でも本当に辞めちゃうの? 少しもったいないなんて思ったりとか……」

 和やかな引退の儀式の終わり、誰かがぽつりと呟いた言葉に一瞬辺りが静まり返る。

「……ごめんなさい」
「やっぱり?」

 例え申し訳なさそうなメロディの言葉がなかったとしても、その場の全員が彼女の答えなど始めからわかっていたのだろう。そう尋ねた本人でさえも、肯定の返事が返ってくるとは全く考えていなかったはずだ。一座の名声を比類なく高めた立役者が舞台を降りる理由、それを彼らが聞いた時から既に短くはない日々が過ぎていたのだから。

「おいおい、これ以上メロディを引き留めようとするなら我らが団長が黙っちゃいないぜ? あの人だってあれでもうけっこういい歳――」
「“あれでもう”とはどういうことかな」

 その瞬間聞こえたよく通る声にびくりと団員が振り向けば、外へと続く戸口で腕を組んだ団長がからかうような目で相手を見ていた。十分に時間をかけて行われたいつもの見回りも無事終わり、彼は背負った肩書きを束の間下ろして仲間たちの輪に加わる。

「だ、団長。いやその、これは」
「確かに私は今年で43になるが、自分では分不相応な若作りをしているつもりはなかったのでね」
「やだな〜……そ、そうじゃないですって。全く団長も人が悪いや」

 一座の食堂が笑いに包まれたのは、慌てふためくその男が本職でもピエロを務めていたからだろうか。団員たちは再び談笑の合間に杯を干す楽しい作業へと戻り、ダリウスは彼らをねぎらう言葉をかけながら1人1人の元を回っていく。しかし団長が最後にその足を運ぶ人物はこの場の誰もが知っていて、もはや何度も目にした光景と言えど、そちらを見ずにいることは容易ではない。生真面目な彼が自ら愛の言葉を囁き、近々正式に身を固めるにあたって人生の伴侶に選んだ相手、それは――。

「メロディ、君さえよければそろそろ休もうか?」
「はい、ダリウス」

 そう答えたメロディは差し出された団長の掌に自分自身の手を重ね、団員たちと挨拶を交わしながら賑わう食堂を後にした。
 ダリウスが1夜限りの手品師としてステージに立った日から早くも1年余りの時が過ぎ、2人は目前に迫った夏の間に結婚することになっている。これまで何度も将来の話をしてきたとは言え、実際にその先へ進むとなるとなかなか好機が得られなかったのだが、昨年海辺の一軒家で過ごした間に団長はメロディに求婚し、冬の短い休みを使って彼女の実家を訪れた。スターリング夫妻はメロディに深く付き合う相手がいると薄々勘付いていた様子ではあったが、まさか相手が娘を託した保護者であるとは夢にも思わなかったのだろう。来訪の本題を明かしたダリウスに両親は言葉を失ってしまい、初日は早々に退散しなければならなかったことはまだ記憶に新しい。
 然して一座に戻った2人は晴れて関係を公表したものの、新手の冗談と一笑に付されるばかりで、全く信じてもらえない日々を送ることになるとは一体誰が想像しただろう? そんな状態で1ヶ月が過ぎようという頃さすがの彼も痺れを切らし、人前でメロディと唇を交わすという強行手段に出たのだが、その衝撃的な場面を目撃した団員たちは魔法が解けたかのように叫び声を上げ、一斉に2人に詰め寄るや否や混乱も露わに質問を浴びせかけたものだ。
 それでも最後は誰もが2人の幸せを喜んでくれている。それが本人たちの人柄故であると疑う者はいないだろう。

「さて、最後の舞台はどうだったかな。やはり君も寂しいかい?」

 手を繋ぎ同じ部屋へ帰る道すがら、恋人たちは星空の下でしばし穏やかな会話を交わす。

「寂しくないとは言いませんが……できることはやりきりました。今はほっとしている方が大きいかもしれません」
「そうか……」
「それに演者を降りても私にはまだまだたくさんの仕事がありますから」

 新たな家庭を築くにあたって2人は子供を望んでいたが、サーカスの仕事はただでさえ疲労著しい肉体労働だ。もしメロディが小さな命をその身に宿すことが叶ったならば、何日も続く本公演でかかる負担はあまりに大きい。ましてや事故や怪我とは切り離せない空中曲芸師ともなれば、母子の安静のためにももちろん降板は避けられないだろう。だからこそ2人は熟慮の末、結婚前のこの公演いっぱいで彼女が演者を引退し、団長の補佐として一座を支えていく道を選ぶことに決めたのだった。

「だがメロディ、忘れないでくれ。舞台の上でも降りてからも、私にはいつも君が1番輝いているということを」
「ダリウス……」
「愛しているよ、私のメロディ」

 彼らは見つめ合うその目を閉じると熱くも甘い口づけを交わす。離れてはまたすぐに重なる唇は2人の確かな愛の証だ。そして恋人同士の深く長いキスを名残惜しくも終えた後、再びダリウスの手を握ったメロディは彼の目を見つめて囁く。

「ダリウス、あなたと出逢えてよかった」

 ――かくしてその夜2人の間に新たな命が授かった。数年後には早くも親譲りの器用さを見せる少年が生まれる頃には、エフェメール一座の名はさらに多くの人々の知るところとなっているのだろう。こうして2人はこれからも続く幸福な物語を紡いでゆくのだ。彼らが出逢い結ばれた、サーカスという最も素敵な場所で。