舞い上がる炎、軽快な音楽。出だしから絶好調の公演は後半に入ってなお気迫あふれる演技に彩られ、熱気に満ちた観客席はこれ以上ないほどに盛り上がる。最終日とは得てして常にそういうものだが、今夜ばかりは特別だ。

「団長、見てください。通路にまでお客さんが」

 舞台の袖で出番を待っているメロディも、満員の客席を指差しながら嬉しそうに振り返る。隣に立つダリウスは古典的な手品師の正装に身を包んでいて、その装いはこのまま舞踏会にでも行けそうなほど上品にまとめられていた。小道具でもあるシルクハットにテールコートとスラックス、靴は光を吸い込むような深い黒。しっかりと糊を利かせたシャツにウエストコートとポケットチーフ、タイはそれらと対を成す眩い白だ。団長として人前に出る時のような華やかさは抑えられていても、クラシカルな佇まいは生来の気品を際立たせこそすれ損ねることは決してない。

「これで私が目も当てられないほど盛り下げてしまったらどうする?」

 そう言って苦笑した憧れの人物をその目に映し、彼を追いかけこの世界に飛び込んだ在りし日の少女は優しく微笑む。

「そんなことはあり得ませんが、その時は……」
「……その時は?」
「私が必ずまた盛り上げてみせます。みんなきっと同じ思いで舞台に立っているはずですよ」

 ――団長室での事件について告げられた団員たちは、新人奇術師が花形スターを傷つけようと画策していたことに驚いたが、彼を見込んで連れてきたダリウスがそんな嘘を言う理由などもちろんあるはずもない。またアレックスがいつもとはまるで違う様子で一座を罵倒しつつ、荷物をまとめて出て行った場面を見ていた者もいたことから、彼らは戸惑いつつも最終的にそれを真実として受け止めるに至った。
 そして一座の結成以来いかなる時も演者としてステージに立つことのなかった団長が、不始末の責任を取って自ら代役を務めると表明した時、自身の耳を疑わなかった者などその場には1人もいなかっただろう。しかし人一倍責任感の強い彼が、自分の手でけじめをつけたいと思う気持ちも十分すぎるほど理解できる。だからこそ彼らはダリウスの決意を尊重しつつ、せめてもの激励として今夜の公演にこれまで以上の大喝采をもたらそうと誓ったのだ。名高い魔法の使い手を最高の状態で舞台に迎え、1夜限りの夢を現実のものとするために。

「さて、本来ならばここで手品を披露させていただく予定でしたアレッサンドロ・ジラルディーノですが、諸般の事情により本日の公演には残念ながら不参加となりました。彼の出番を心待ちにしてくださっていた皆さまには深くお詫び申し上げます」

 残す演目も2つを数えるのみとなった時、ついに明かされるアレックスの不在。それを聞いた観客からは途端に不満の声が上がるが、それを巧みに捌くのもまた司会の役割だ。

「お怒りや落胆もごもっとも! ですが代役を聞いて驚きなさいますな。今宵12年の時を経て再び皆様の前に返り咲きますは我らが一座の団長その人、かつて本物の魔術師と謳われしダリウス・エフェメール!」

 しかしその名前に俄然色めき立ったのは客席の半分にも満たず、往年の名声を知る者もずいぶんと減ってしまったことは否めない。それでも団長に心からの信頼を寄せる団員たちはただ彼の出番を待ち侘び、固唾を飲んで舞台の上に視線を注ぐ。他の誰よりこの時を待ち望んでいたメロディもまた、彼女を見つめる灰色の眸に1度大きく頷いた。

「さあ魔法とまで言われたその手腕とはいかなるものか、皆さまの目でしかとお確かめください!」

 司会の言葉にも半信半疑の疎らな拍手。昔の栄光を覚えている者にとっては今の彼が見劣りすることを恐れ、初めてダリウスの名を聞いた者にはアレックスの鮮烈な印象を塗り替えることなど到底不可能に思えているのだろう。手回しオルガンの古びた曲に合わせて団長がステージへ赴くと、その古典的なマジシャン像に観客席からは小さな笑いが漏れる。
 だが……。

「!」

 深く一礼した彼が何の前触れもなく空中から紅いシルクを出現させると、ざわめいていた天幕の中は水を打ったように静まり返った。全てを詳らかにするかの如く、ダリウスの動作はあくまでも優雅にゆったりと進められる。不審な動きも見落とすものも何1つとしてなかったはずで、唖然とするのも無理はない。観客が無意識のうちにそれを感じ取り思わず口を噤んだように、無から有を生じせしめる過程をここまで自然に演じられる奇術師など少なくなって久しいのだから。
 それだけで彼の類稀なる力量を悟った者もいただろうが、ダリウスは握った片手へ布を押し込み、同じ色をしたボールに変えてそれを取り出してみせる。袖口のカフリンクスを煌めかせ、手にした球を頭上高くへ放り投げれば人々の目はもはや釘付けだ。

「――すごい!」

 再び彼の手に戻ったボールはなぜか3つに増えていて、すぐさま子供たちの歓声が上がる。メロディを始めとした一座の団員たちもそれに遅れず拍手を送り、他の観客たちはそこでようやく我に返ると各々の手を叩き始めた。

「これって本当に手品なのか?」
「どうしてこんなことができるのかしら……」

 音楽に合わせて自由に踊るシャボン玉、手をかざすだけでめくれる本。ハートのキングとクイーンは何度シャッフルしても必ず隣り合い、合わせた掌をゆっくりと開けばその間を繋いでいくのは小さな旗だ。これまで飽きるほど見てきたそれらの技も、くすんだ金髪のマジシャンにかかれば淡い懐かしさは保たれたまま、新たな命を吹き込まれていく。その手品は熟練の技巧を施されながら誰もが楽しめる優しさに満ち、もはや彼を見くびる者など1人もいない。

「10年舞台に立たずにいてもこの腕なんて……」
「こんなマジック観たことない!」

 割れるような歓声、鳴り止まない拍手。興奮して立ち上がる子供たちを諌めることも忘れ、大人たちも目を輝かせてダリウスの一挙一動を追い続ける。種や仕掛けを見破るよりも、人々は彼が生み出す驚きに魅了される方を望んでいた。もう全員が気づいているのだ――“魔術師”エフェメールの奇術には今もなおそう思わせるだけの力があるということを。

“……ダリウス……”

 自身の出番が迫っていても、喜びのあまりに込み上げる涙を抑えることなどとてもできない。幼き日のメロディが心奪われたダリウスの魔法は今、長い時を経て再びサーカスの舞台に戻ってきた。これが今夜だけのことだとわかっていても、その胸を高鳴らせずにいることなど一体誰ができるだろう? できることならこの場で叫んでしまいたい――彼こそ自分が愛を捧げるたった1人の相手なのだと。

“やっぱりあなたが1番です。どれだけの時が経っても、私にはあなたが……”

 濡れた目元を拭いつつ、彼女は演技を終えた恋人が満場の喝采に応える姿を見つめていた。そのダリウスは一通りの挨拶を済ませた後で舞台の袖を振り向くと、真っ直ぐメロディに手を差し伸べて彼女をステージに招き入れる。それを受けたメロディが彼の元までゆっくりと歩み出ると、華奢な手を取り跪いたダリウスは涼しげなグレーの目を伏せ……。

「……!」

 彼女の指先に恭しくも情熱的な口づけを贈った。

「メロディ、次は君の出番だ」

 今しがたまでの拍手をも上回るようなどよめきの中、下げられたブランコを手渡しながら団長は麗しき花形に告げる。一座で最も優れた演者が担う最後の演目を、彼自身もその目にするのが待ちきれないと言わんばかりに。